ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

よかったね...

最近、ロンドンで牧師をしている広東系マレーシア人の友人からメールが届き、「この頃の神学書よりも、20年ぐらい前のものの方がよかった」「今、C.S.ルイスの再評価が始まっている」などと書かれてありました。私が、「あの聖書学者(注:ルイスではありません)の本は、学部生の頃、読んでいました」と返事を出すと、「それを聞いてうれしい。私は70年代に読んだよ」とのこと。こういうやり取りが交わせる点、頭はほとんど使わなくとも気ばかり使ってきたマレーシア経験で、ささやかな喜びです。
聖書翻訳でもそうですが、新しい訳や考え方が、必ずしもよい方向に進んでいるとは限りません。その場ではそれが前進ないしは改善と思っていても、しばらく経つと、あるいは、何十年か経つと、「前の方がよかった」と、評価が変わってくる場合もあります。
以前、ある牧師から聞いた話ですが、聖書学の方では、福音派の人が自由主義神学の人達に、現状の教勢低下や行き詰まりや変容を指して、「ほら、だから言ったじゃないか」というのだそうです。確かに、そういう面はあります。しかし一方で、「結論が最初に来ているというのも…」という躊躇いが、自由主義神学の人にはあるのだそうです。探究の道筋が短縮されたまま、無理やり教義として信じさせている点、福音派の一部にも問題があるのかもしれません。
今、カール・ヒルティを若い頃に読んでいてよかった、と思います。確かに、ヒルティの語っていることは、その本質において正しいからです。
例えば、マレーシアのムスリム・クリスチャン関係などを調べ始めると、事態が次々と発生していますから、事実確認だけでも大変です。また、暴力や対立を避けるために妥協しようとすると、キリスト教側にとっては腑に落ちない結論に陥る可能性があります。かといって、「純粋さ」を保つために孤立するのも不自然で、どのようにしたら、この多元化した社会の中で福音精神をしっかりと実践できるかが喫緊の課題です。
私が事実だけを挙げて記述する手法をとっているのも、実際には、妥協せずに相手を認め合いながら共存することの事実上の(不)可能性を予期しているからで、立場を明確にすると、どちらかが相手に対して「出て行け!」となるのを恐れているからです。このディレンマは深く、確かに一神教には問題があると認めざるを得ません。かといって、非一神教の人なら客観的に‘中立的’に物事が観察できるかと言えば、センスがよく、基本が理解できていれば、そういう事例もあるのでしょうし、程度によりますが、それも限界があるとは思います。
それに、人類学の研究者が、人の心の覗き見をしようとして、現地のインフォーマントになら決してしないであろう傲慢な態度で私に詰め寄ったことがあります。「知っているんだろ、言え、自分だけ知ったつもりになるな」と。教養学部はやっぱり必要、ですね。
マレーシアに残ってマレー人と協調しようとする非マレー人は、「どんどん駄目になっていく」と華人から聞いたことがあります。キリスト教会が疲弊気味なのも、マレー当局からの断続的な警告書に対して、同じような抗議声明を出し続けているせいでもあるでしょう。その反動として、聖霊カリスマ運動や単純な聖書理解や終末論に走ったりするケースもあります。
あるクリスチャン華人女性の研究員が、後任が決まったので、とうとう職を辞すことになったらしいです(参照:2007年12月29日付「ユーリの部屋」)。残念ですが、彼女の才能が活かせるのであれば、新たな道を祝福したいと思います。思えば、8年間のお付き合いでした。本当に、彼女なしには知り得なかったこと、理解が深まらなかったこともたくさんあります。
彼女自身、ハワイ滞在中にクリスチャンになって、マレーシアへ帰って来ました。私と出会ってしばらくの頃は「国に奉仕するの」と意気込み、熱心に仕事をしていました。高校だったかの同窓会で、元クラスメートに何をしているのかと尋ねられ、「え、何で帰ってきたの!」「そんなぁ、もったいない!」と言われたのだそうです。2006年11月にマレーシアで会った時、「このままじゃ、マレーシアの教会は駄目になる。先が見えているじゃない。また海外に出たら?」と私が言うと、「私達、ここに留まるわ」と決然とした答え。福建の4世だったからということもあるでしょう。同席のもう一人の方は、奥様がドイツ人なので、いささか戸惑ったような表情をしていたのも忘れ難いです。
そういえば、昔は、ブラーミン・カーストヒンドゥー教徒の方とか、モダン・シークの先生などとの交流もありました。若かったからできたことであって、今ならとても時間的余裕がありません。でも、とってもよくしていただきました。タミルの古典舞踊の会やサリーの展示会などにも誘ってくださったり、パンジャビ・スーツを買ってあげよう、とお店に連れて行っていただいたり、本当に楽しかったです、あの頃は。
いつも思うのですが、カンボジアの研究者はおっとりと穏やかな感じで、ベトナムの研究者はかっちりと理論的で落ち着いた印象を与えます。特に、ベトナム関連は、質のよい研究が多いです。先生がいいから、お弟子さんも優れているのでしょう。そして、ベトナム人が勤勉で優秀だから、ということもあるかもしれません。
マレーシアは…う〜ん、はっきり言いましょう。正直なところ、私には合いません、ね。デキル人は皆、どんどん流出してしまっていますから。残っている人は、この先、どうなるんでしょうか。デキない私も、もう早く出たいです!