ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

なぜおもしろくないのか

昨日は、翻訳問題について愚考を書きました。反応は恐らくさまざまなのだろうと思いますが、今年3月の聖書翻訳ワークショップで聞いた話として、「聖書翻訳に文学者も加えることを検討してみては」というコメントがあったことを申し添えておきます。
文学者といっても、故小川国夫氏のような作家が亡くなりつつある現在、人材選定にも苦労が伴うのではないかと予想されます(小川国夫氏については、2008年4月9日・4月12日付「ユーリの部屋」参照)。結局のところ、今年のノーベル受賞者の一人がテレビで力説されていたように、均質化された教育制度によって、思考が画一化されているという影響については、確かに看過できないとは思います。うちの父も、10数年前に言っていました。「今は共通一次試験世代だからなあ」と。
例えば、村上春樹氏の書くものは、外国語に翻訳しやすい文体だと言われます。つまり、外国語になじみ、論理的で新しい文体が人口に膾炙しているということらしいのです。ノーベル文学賞候補に名が取り沙汰されるのも、恐らくは、翻訳言語が多いために、諸外国にも名前が知れ渡っているからだろうと想像されます。私は、村上春樹氏の本を読んだことがなく、あまり読む気もしないので、何がそれほどいいのかよくわからないのですが、知名度が上がれば、確かに、受賞候補者だと騒がれる可能性も高くなるのでしょう。
今では、ちょっとしたことを調べたい時には、すぐにパソコン検索というパターンが定着してしまいました。私自身は、何でもパソコンに網羅されているわけではなく、間違いも多いことを自分のリサーチ過程で身にしみて知っているので、やはり書物との使い分けが大事だと考える方ですが、少し外国語が読めるならば、すぐにネタがバレて飽きてしまうような「概説」も多いことに気づきました。ウィキペディアなんかがそうです。以前、ある名誉教授から、マレー語のアセアン言語要求についてウィキペディアに書いてあった件を尋ねられましたが、何のことはない、手持ちの資料で調べてみたら、ネット情報の方が明らかに間違っていました(参照:2008年1月15日付「ユーリの部屋」)。
こういうことがあるので、やはり基礎力と手作業を怠ってはならない、と思うのです。
先月の学会でも、「インターネットで検索してみれば、すぐにいろいろわかってくるんじゃないの?」と言われた先生がいて、がっくりきました。パソコン検索はあくまで手段。一次資料としての現物をこの目で見て、初めて研究と呼べるのではないでしょうか。もし、インターネットに掲載されているから、というだけの理由で等閑視したら、問題意識さえ浮かばなくなるでしょう。
だから、最近の科研費研究なども、つまらないものが増えたんじゃないかなあ、と感じています。情報としては確かに細かくなったし、人があまり知らない方面を堂々と提示できるようにもなりました。でも、何だかおもしろみがないんです。(ふ〜ん)で終わってしまうのです。(私の学生時代のゼミレベルだったんじゃないかな、これ)と思うものも皆無とはいえません。
例えば、デジタル資料として古い聖書がネット上で公開されているものもありますが、よく見ると、それは何版か重ねたものであったり、発行年月が欠けていたり、表紙と一ページぐらいが写真になっている程度で、文字もよく読めないどころか、他のページがどうなっているか不明のままのものもあります。結局は、蔵書のありかが公開されたと見るべきで、実際に訪れて現物を確かめなければ、あまり意味がないのではないでしょうか。

PS:ある研究会合で知り合った先生が、後にメールで教えてくださった話です。中国のある宣教師に関して、英国内を地図を片手に歩き回って宣教師のお墓を探し、ようやく写真を撮るところまで辿りつきました。ところが、後でネット検索したところ、何と観光旅行風に当該お墓を写真に撮った人がいる画面が出てきて、その時は、思わず呆然としてしまったそうです。わかります、その脱力感(←ですよね?)。丹念に、コツコツと足で歩いて調べていたところが、誰かがもうサイトに掲載してしまっている、という....。もちろん、そのお墓巡りの意図が問われるので、先生の努力は全く無駄とは言えないはずですが。