ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

祝・ノーベル物理学賞

やっぱりうれしいですね、今年の3人のノーベル物理学賞受賞が久しぶりに日本の方。しかも、私の故郷、名古屋のご出身が2人もですよ!もっとも、母校(注:父と妹の母校でもある)は、昔から、理系は強いが文系はからっきしダメだと言われていたので、何らおこぼれにも預かれませんけれども。ともかく、6年ぶりに秋が色づいたって感じです。
物理学といえば、うちの主人も出発点はそこから。日本物理学会でも、新幹線に乗って、学生時代に九州大学で発表したと、今朝言っていました。今となっては、遥か彼方の遠い思い出です。とはいえ、主人の勤務先は、とてもいい人達が多く、何かと気を使ってもらっているようです。これは、本当に感謝なことです。やはり、環境は大事です。最近、アメリカの学会でも発表申込みが受理されたそうです。もちろん、健康上の理由で出席できませんので、代わりの人に行ってもらうのですが。

ふと、今の自分にどれほどの「市場価値」があるのか、試しに履歴書を書いてみようと思い立ち、始めてみたところ、途中でペンディング状態になってしまいました。

結婚前は、いろいろな経歴や資格などが詰まっていて、一見順調に見えるものの、当時の心理では、毎日が緊張状態で、期待どころか不安ばかりのしかかっていました。正直なところ、(これが本当に人生というものなら、生きることに一体何の意味があるのだろうか)と感じる日々でした。一生懸命に努力しているつもりでも、何らアイデアが浮かばず、つけ焼き刃のような発想しかなくて、むしろ、明日の予定が無事にこなせるかばかりが気になり、「おもしろい!」「これをやってみたい!」という生き生きした感動を味わうことすら、ありませんでした。

それに比べると、矛盾するようですが、この10年は、精神の自由度という点では、一筋縄ではいかなかったものの、格段に向上しました。都心から離れた自然の豊かな山里に住み、気兼ねせずにクラシック音楽に浸り、読みたかった分野の本に関して手当たり次第に夢中になり、国内外の小旅行を積み重ね、書きたい文章がどんどん生まれ、一人でゆっくりと考える時間がふんだんに与えられました。いろいろなものを読んだり見たり聞いたりしても、昔なら意味がよくわからず頭がぼんやりしていたことが、今ならかなり鮮明にすっきりと納得がいくようになってきたのです。
例えるならば、「これがメガネというものです」とあてがわれた度数の合わないメガネをかけていたところ、物が二重にぶれて見え、焦点がどうにも合わず、「メガネをかけているから見えるはずなのに、どうして見えないと言うの?」と叱責されて「すみません。見えなくてごめんなさい」と、血走った疲れた目をして謝っていたのが、ようやく度数の合うレンズと出合って、ピタリとクリアに見えるようになり、充血もとれ、楽になって、「あ、間違っていたのは私の目ではなく、レンズの方だったんだ」と思えるような感覚です。それはひとえに、環境が変わったためでもあり、主人のおかげでもあります。(結婚前の懸念に反して、リベラルで合理的な思考の持ち主と暮らすと、こんなに楽なのかと思います!)

しかし問題は、履歴書の条件から考えれば、「空白の期間が社会的にどう評価されるか」なのです。つまり、メガネの事例でいけば、合わないレンズでがんばっていた時期を、それでも「人生に無駄というものはない」と言い包めてしまうのか、それとも「あの時期は、レンズの不適合に気づくのが遅れ、まったく無駄でした」と素直に認めてしまうのか、です。

「経歴を汚さないように」「履歴書にアキを作らないように」という指導は、学生時代から耳にタコができるぐらい、聞きました。それに従順であろうとすると、貧困で月並みなことしかできなくなります。いえ、有能な人ならば、限られた時空間できちんと両立できるのでしょうが、通常ならば、力を蓄えて人脈を広げてのびのびと飛翔していく若い時期に、私の場合は、チャンスがあったとしても「ダメダメ」「そんなこと、できるわけがない」と前もって否定されるような、いわば逆行したケースだったわけです。

それから、家庭形成も社会の安定と発展には欠かせない重要な要素なのに、出産や子育て期や介護中の女性は「履歴書のアキ」と見なされるのでしょうか。家族の予期せぬ健康問題は、「経歴を汚した」ことになるのでしょうか。我が家も期せずして貢献してしまっている少子化の原因は、実はさまざまとはいえ、社会構図に自分を合わせようとすると、何かと(どうしよう、どうしよう)と、前もってマイナス心理が膨れ上がってしまう、という要因もあるのではないかと思われます。

ノーベル賞受賞者の話を読むと、必ずといっていいほど、「自由な思考」「先見性と独創性」が出てきます。もちろん、基礎学力が高度であることが前提条件ですが、柔軟で新しいアイデアを次々に思いつき、それを前例にとらわれず実践させてもらえるような大らかな環境が必須のようです。ご本人の気質や資質もさることながら、学校や家庭の環境が狭隘なタイプで、逐一言動を監視するようなら、萎縮してうまくいかないことも多いのではないかとも思います。
そして「自分を信じろ」とも。新聞を読みながら、「だけど、自分の可能性を信じていたとしても、『あんたにはできっこないよ』『失敗するな』と言い続ける人が周囲にいたら、信じている自分が間違っているってことにならないかな」とつぶやくと、主人が「だから、それは自分を信じていないってことだ」と断言。

ところで、昨夕、患者友の会から電話があり、「まあ、がんばり過ぎないようにがんばって」と言われました。患者本人もさることながら、特に、家族のケアが疎かにされる傾向があるため(家族の方は一見、元気に動き回っているので、他人にはわからない)、そこを何とか工夫して、周囲にも理解を求めていこう、という話で落ち着きました。この夏も、家族の集まりでは、誰もがいっぱい言いたいことがあって、時間不足だったとか。わかります、その状況。若年性の場合、悩みが深いのです。結婚、職探し、家族形成、失職の不安、長年に及ぶ病状との闘い、経済問題、先の見えない迷路...健常者でさえ大変なこれらの「ライフイベント」(と、あえてカタカナ語で軽く言ってみる)について、人にはあまり言いたくもなく、言ったからと言って解決するものでもなく、しかし、言わなければ伝わらない状況もある、という...。健康な人は、(じゃ、病気の人達の分もがんばろう)と思ってくださるか、それとも(ああいう風にだけはなりたくない)と知らん振りを決め込むのか、それはよくわかりませんが、基本的に社会は健常者中心にできているので、結構、つらいものがあります、ね。(←それなら、どうして医学研究というものがあるんでしょう?)
会報が、以前よりも楽しく前向きな内容に変わってきたと申し上げたところ、「いえ、よくないことが続いているので、明るい記事を中心にしてみたんです」というお返事。(やっぱり、表面だけを見ていてはわからないんだなあ)と改めて思いました。ブログもそうかもしれません。意欲的なことばかり書いている人が、いつも楽しく元気だとは限らず、問題を抱えつつも、それを見せたくない、あるいは、自分を鼓舞するために、あえて建設的な内容だけ選んでいる、という場合もあるでしょう。大事なのは、そこのところを読み間違えず、きちんと裏まで読めるか、です。

昨日は、インドネシア聖書協会宛に一冊聖書を注文しました。シェラベア訳の現代版のような翻訳が出ていると知ったからです。なるほどインドネシアは、言語文化的にマレーシアの先を行っています。それと、ヨハネ福音書の出だしの訳文を読み比べてみたところ、「ロゴス」の訳し方にさまざまな特徴が出ていることがわかりました。計7種あります。端的に言えば、翻訳者の神学的言語的センスが現われていることと、時代背景の理解が不可欠だということです。聖書翻訳は、訳せば残るという単純なものではなく、残る訳文は、それなりの意味があって残っているのだということでしょうか。

PS:今夕のニュースでは、ノーベル化学賞に日本出身の方が選ばれたとのことです。祝意を申し上げます。