ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

夢想と現実およびその実現へ

豊かな緑に囲まれ、水質がよく静かな環境に住み着いて10年以上がたちます。京都へも大阪へも神戸へも約1時間で着くので、便利なベッドタウンだと言えます。また、図書館や保健施設などの公共施設でも、長時間待たされるということがないため、都心に住んでいる人よりは、遙かに時間も節約できるでしょう。ただ、この環境で、本当に話の合う親しい人が周りに多く住んでいるかどうかは、また別問題です。その意味では、子どもの頃、思い描いていた暮らしぶりとは、ちょっとかけ離れた面がなきにしもあらず、です。理想を言えば、これまで訪れたことのある場所で、(こんな所に住みたかったなあ)と思うこともありますが、現実面を考えると、主人の勤務や家屋の手入れに負担がかからないように、当面のところは今の場所を妥当と考えているわけです。
主人は、当然のことながら、私が折々につぶやく言葉を聞いているので、このような思い巡らしには気づいています。いつも、家の広告が入る度に、ずっと検討してコメントするからです。結局のところは、「家や住まいはいいとしても、環境や場所がちょっとねえ...」「変なところに建てたもんだなあ、このマンション/家...」「二人暮らしの割には広過ぎないかい?」などという結論におさまってしまいます。確かに、一定額の資金を投入すれば、理想とする場所に住めなくもないのですが、老後をどうするのか、などと考えると、今はこの辺りで満足し、他のことにもっとお金を使おうか、ということになってしまいます。
しばらく前のことですが、私の親より少し若いぐらいの年代の方から「あら、あなた、まだそんな所に住んでいるの?」と言われてびっくりしました。どうやら会話から察するに、今は一種の「高級住宅街」と呼ばれる場所に住んでいるその方は、結婚後しばらく、私達の今いる場所で暮らしていたようなのです。同じ地区の別の年配の方からも、「私、あなたの住んでいる所に、子どもが幼稚園の頃、住んでいたの」とも言われました。つまり、その年代の方達にとっては、仮住まいの場所であったわけです。ですから、その先をいっていなければならないはずの年代の私達が、いつまでもレトロ風に留まっていることが、不思議なようでした。
確かに、この10年で、ここに住む人々の層に変化が見られます。今は、若い新婚夫婦でも、学生といってもおかしくないような人達で、昼間でも若い男性を見かけることが増えてきました。前ならば、いかにも初々しそうなサラリーマン核家族が標準だったのに、です。(このお兄さん、いったい何をしているんだろう)と思いますが、それは向こう様も同様かもしれません。そして、ご多分にもれず、高齢化が進みました。一方、高齢者の中には、あえて都心駅前の高層マンションに入居する人が増えているのだそうですが、これはいわゆる億ションのようですから、富裕層なのでしょうね。高所恐怖症の私は、仮にお金があったとしても、にぎやかで空気のよくない駅前には住みたくないのですが。
また、10年前には入っていた幾つかのお店が閉店しました。小さなスーパーもあったのですが、毎月の家賃が払えないからと、2年前に店じまいになってしまいました。私にとっては、そこで食材を買うことは少なかったものの、コピー機をよく使わせてもらいましたし、文房具なども助かっていました。そこは今も、空き地となっています。今、国会議員をしている某氏も、選挙運動中はそのスーパーに入ってお客さんに挨拶していたこともあったのに、と栄枯盛衰を思います。美容院とお寿司屋さんとパン屋さんとクリーニング店だけが継続していて、酒屋さんは歯医者さんに、薬局は床屋さんに、お米屋さん兼文房具店は、店じまいしたままです。しかも、クリーニング店は、機械が古くなったからと、受注のみに転換されました。
10年と言えば、赤ちゃんが小学4年生になるまでの期間です。変化があって当然なのですけれど、名古屋では、ここまでクルクルとめまぐるしいお店の変遷を見たことがなかったので、これも、ここ10年の社会の変化なのか、時代の速度が早まったのか、それとも経済情勢の悪化なのか、考えさせられます。関西では、お客さんの好みがはっきりとしていて実利的なので、よりシビアに映るのかもしれません。
私は、住む場所によって、人の対応やこちらの意識も変わってくると思います。これを言うと、主人は「住む場所を変えたからって、暮らしの習慣が変わるとは思えないよ。自分は自分だよ」と反論するのですが、果たしてどうでしょうか。着るものや化粧によっても、心理が大きく異なるのに、主人は「化粧なんてしなくていい。着るものでも顔は変わらない」というタイプですから、当てにはなりません。
アメリカでは結構きれいな良い場所を知っていた主人が、そのようなことを言える資格はないようにも思うのですが。マレーシアでも、その善し悪しは別として、急速に都市開発が進み、見た目は本当にきれいに整えられてきました。おそらくは、かつての私の学生達の方が、今は上等な暮らしを享受しているのではないでしょうか。
多分、私は、人生に求めるものが本当には得られていないのだろうと思います。あるいは、理想ばかり夢想する夢見る夢子なのかもしれません。ですが、よい音楽を聞いたり、本を読んだりして、想像力をかき立てられ、夢をふくらませることは、悪くはないと思っています。それなしに、現実だけ見て殺伐とした人生になってしまうではありませんか。
働き盛りの時に贅沢な場所に住むより、老後をゆったりと良い場所で過ごそうよ、というのが主人の意見です。そのためには、私ももうそろそろ働き始めなければ、と思います。この2年間は、ゆっくり家にいて、好きなように勉強をさせてもらいました。この時間は必要だったと思いますが、このままずっと、というのでは退屈です。結局は、ブログを書くことで、ある程度もやもやに整理がつき、他の人の文章も以前よりはっきり見通せるようになってきたのだろうと思います。今後は、整理だけでなく、新たに蓄えを築き上げたいものです。

*このブログ、自分では本当におもしろいのかどうかよくわからないのですが、少なくとも毎日、一定以上のアクセス数があることからも、どなたかは見ていてくださっていると解してよいかもしれません。もっとも、キーワード検索のおかげでもあり、長く書けば、書いているうちに数値が上がり、書くのを休めばアクセス数が減るので、もちろん自分で稼いだ数値も含めてのことでしょう。
*昨日書いた内容に関して、「宗教離れの増加は、長い目で見ると経済的にも凋落する」というコメントを読みました。また、米国のMIT教授の調査では、「教会に通う頻度が高いほど高収入だ」とのことです。一方、オーストラリアの教会では、「心の支えの源泉であると信じていた教会に疎外感を持つ人は、黙って去っていく」「力があり、思慮深い信者は教会を離れようとしている」という分析が報告されており、アメリカのカトリック教会では、「若い人は教会よりも魅力ある活動対象を見つけている」「教会は、世間の常識からかけ離れている」と言われているそうです。いずれも、もっともなご指摘です。両面を踏まえることが重要かと思いました。