ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「知識は力なり」の意味するところ

昨晩遅くに思いがけずシンガポールからメールが届きました。2005年8月にハートフォード神学校を訪問した時、私の文献調査に興味を持った南カリマンタン出身のムスリム青年が紹介してくれたシンガポール華人の女性からです(参照:2007年12月4日付「ユーリの部屋」)。彼女とは当時、会うことができませんでしたが、ムスリム青年の仲介によって数回メールのやりとりがあり、関心の一部共有を確認することができました。ところが、2006年11月にマレーシアに寄った時には、私の方がなんだか疲れたために、彼女に連絡をとるのを躊躇してしまいました。それ以来、連絡は途絶えていたのですけれども、突然のようにメールが来て「私、修論終わったのよ。そっちに送るから住所を教えて」とのこと。会ったこともないのに通じ合うとはこのことで、早速、論文を楽しみに待つことになりました。
この事例が示すように、必ずしも華人とマレー系ムスリムが対立しているばかりとは言えないわけです。もっとも場所と目的が問題で、シンガポールカリマンタンであれば、特に親しく口をきく仲ではなかったのかもしれません。しかし、ひとたびアメリカの神学校で共に学ぶ同期となれば、東南アジア出身同士、意見交換もでき、親しみもわくという環境が作られるのだろうと思います。ここが、ムスリム・クリスチャン関係の複雑なところであり、希望が持てるところでもあるわけです。例えば、国際紛争の調停で、現場ではにらみ合って口もきかない間柄であっても、交渉の場が北欧だったりすると、距離と仲介者の腕の振るいどころのなせる業もあり、こじれていたものがふっとほどけるという瞬間が芽生える可能性もあるでしょう。近年では、アチェの事例などが、その適例の一つかと思われます。
おとといと昨日紹介した『ズィンミーイスラーム下におけるユダヤ教徒キリスト教』(拙訳)の主張に対して、必ずしも私が合意しているわけではないのは、上記の事例からも支持されます。第一、マラヤ大学でマレー人学生に教えていて、3年間、特に宗教上の問題は何も発生しませんでしたから。もっとも、こちらが教える側であり、深入りしないように心掛けていたためもありますし、当時のマレー人学生は農村出身者が多くて、実に素朴で真面目で素直でした。今は、あの頃以上にイスラーム復興が進展し、経済的にも格段に裕福になったマレーシアなので、学生気質もかなり変わったことだろうと思います。
一方で、だからといって無邪気にナイーブに、「同じ人間ですから、話せばわかるでしょう」とノコノコ出ていくのも無防備過ぎるということを、私は言いたいのです。やはり、「知識は力なり」という欧米のことわざは真実を言い当てており、できる限りさまざまなことを知っておくことは、自分を危険から守るためにも、より充実した人生を送るためにも必要だと思います。あ、これは社会上昇の手段という意味ではありませんことを、どうぞお間違えなく。それに、「どんな種類の知識か」という方が数段問題になることもお忘れなく。
例えば、イスラームでは「知識(Ilmu)を求めることはムスリムの要件だ」と言われています。ただ、研究会で聞き及んだところによれば、その意味するものはどうも、ムスリム共同体内部での「知識の競り上がり」とも言うべく、「いかに‘正しい’イスラーム知識をより多く蓄えているか」ということのようで、場合/人によっては、死活問題に関わるほど非常に重視されるのだそうです。それはそれできついものがあるだろうと想像されます。

ただ、上記本が純粋なアカデミズムから出たものではないとしても、学問的に見ても誠実な手法をとっていることはわきまえる必要があります。往々にして、学者の論述は、「○●大学教授」の肩書だけで信頼が増すような一般通念があります。それはある程度妥当であるとしても、必ずしも、大学教授のすべてが正直に本心を学問的に語っているわけでもないでしょう。地位と肩書を守るために、心にもない説を唱える人だって皆無とは言えません。それ以上に、公の立場を持つということは、一面、自由が束縛されることも意味しているので、イスラーム問題に関して、フランス語圏でも少なくとも建前上は、考慮して発言されているのではないでしょうか。
この著者の場合、決して一般大衆向きの本を書いたつもりではないと思います。それほど単純な読み物ではありません。一応は大学関係から出版されている400ページ以上にも及ぶ著作です。また、ご主人が国連でも相当なロビー活動をされているようで、だからこそ、一応の考え方や潮流は、現代人の端くれとして知っておく必要があると改めて感じた次第です。

私もこれまで、このブログでいろいろな本を紹介してきましたが、概して女性の方が、『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピ氏にしても(参照:2008年1月31日付「ユーリの部屋」)、元ムスリマのエジプト系アメリカ人Nonie Darwish氏にしても(参照:2008年5月3日・5月9日・5月10日・5月12日・5月13日付「ユーリの部屋」)、ハーヴァード大学のテロ問題専門家のJessica Stern氏にしても(参照:2008年5月7日・5月8日・5月10日付「ユーリの部屋」)、このBat Ye'or氏にしても、非常に勇気があり大胆だと思います。どの方にも共通する項目として、夫ないしは男性パートナーの相当な支援があることです。これは非常に重要で、かつてのフェミニスト論者のように、シングル女性が一人でけたたましく頑張ってもなかなか通りにくい面があるけれども、もし近しい男性の支持があるなら、社会的に通用しやすくなるケースも多いという意味ではないかということです。