ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

教皇講話と教会音楽の演奏会

昨日は、しばらくムスリム・クリスチャン関係問題で疲れてしまったので、ブログはお休みして、読書と教会音楽で過ごしました。
しかしその読書がまた気の重いもので、何とかこの世の中、どうにかならないかなあ、と感じてしまった次第です。読書とは、2007年12月21日付「ユーリの部屋」でもご紹介した、ペトロ文庫の『教皇ベネディクト十六世 霊的講話集2006』(2007年)です。また、同種の2005年版も合わせて読みました。
前者には、レーゲンスブルク大学での講話とそれに関連する文書が計5回出てきます。この時の大阪カトリック大司教の対応は、既に2007年12月6日付「ユーリの部屋」でも述べましたが、実はマレーシアのカトリック大司教区でも大変な思いをしたそうです。ただし、同じカトリックの対応でも、インドネシアやフィリピンは、人口によってそれぞれ異なった声明を出したそうで、そのことも資料としては集めてあります。いずれ、文章にまとめる予定でいたのですが、こういう話は、本当の専門家や当事者でない限り、根拠なく余計なことを口出しすべきではないのだろうと思って、そのままにしてありました。だいたい考えがまとまってきたので、また機会があれば、といったところです。
日本の某大学では、「ローマ教皇は、ヨーロッパがキリスト教だけだと考えているのか。どうしてムスリムを受け入れようとしないのか」というような文書を出していましたが、私に言わせれば、どこかピントがずれているように思います。ムスリムの全員ではないことはもちろんだとしても、少なくとも一部のムスリムが、これまでヨーロッパで何をしてきたか、どのように統合や協調を拒み、破壊的な行為に出たかを考えれば、また、長く重苦しいムスリム・クリスチャン対話の経緯を少しでも知れば、非カトリックであることを盾にとって、そんなにやすやすと教皇批判を出せないのではないかとも思います。私はカトリックではありませんけれども、日本的文脈でならば、公的にはそのように表現できても、ムスリム多数派地域に生きる少数派カトリック共同体の置かれた状況を考えれば、あまりにも思いやりがないのでは、とも感じました。それに、その路線でいけば、背後で‘犠牲’になって黙って排除されてしまっている人々に対する扱いは、全く矛盾することになります。
直後に広く知られたことですが、2006年9月12日のレーゲンスブルク講演がきっかけで、9月17日には、ソマリアの首都モガディシュで、2002年から奉仕活動をしていた慰めの聖母宣教女会所属のイタリア人シスター・レオネッラ・スゴルバーティが、ボディガードと共に殺害されてしまいました(享年65歳)。しかも、「わたしはゆるします」と言いながら亡くなったそうです。
似たような話を、何年か前にどこかでカトリック曽野綾子氏が書いていらしたことを思い出します。その場合は、ムスリム地域で働いていた司祭の事例で、数日前から死の脅しを受けていたらしいのですが、「自分が何をしているかも知らないで...。でも、私はゆるします」という意味の置手紙を残したのだそうです。
上記本にも、2006年2月5日に、トルコの黒海沿岸の町トラブゾンの小さな教会内で祈っている時、16歳の少年に殺害されたアンドレア・サントロ司祭(享年60歳)の話も詳しく掲載されています。この教区は、信者8-9名の貧しいグルジア人から構成されていて、司祭は、死の数日前である1月31日付の教皇宛書簡で、トルコ訪問時にこの教区へも立ち寄ってくださるよう依頼していたのです。3人の女性信徒が切々と語った手紙の言葉は、次のように訳されています。「グルジア人は大変貧しく、借金をかかえ、住む家も仕事もありません。...わたしたちはキリスト者として生きることを忘れてはいません。またわたしたちは、神の名において、トルコの人々のよい模範になろうと努めています。...申し上げたいこと、お話ししたいことはたくさんありますが、「インシャラー(神がお望みになるのでしたら)」、トラブゾンにおいでくださり、直接お話ししたく存じます」「わたしたちは小さな群れですが、イエスがおおせになったように、地において、塩、パン種、光となろうと努めています。...」
このような事例の積み重なりによって、あのような講話に結び付いたのだとしたら、非カトリックとしては黙せざるを得ない面もあるかと思います。
これに関連して、英語版はてなブログ日記“Lily's Room”にもたびたびご登場いただいた(2007年9月24日・9月26日・10月31日・11月1日・4月15日・4月16日・4月22日付)エジプト人教授Fr. Prof. Dr. Samir Khalil Samir, sj(1938年カイロ生まれのイエズス会司祭)の言説も、また無視できるものではないかもしれません。「ムスリムレーゲンスブルク講話のニュースを知って抵抗したのは、抵抗に加われ、という指示があったからだ。実は、あの講話のテクスト全文をきちんと読みもせず、何がなんだかよくわからないままに、反発したムスリムが多かった。すなわち、ムスリムは、あの行為によって、自ら誤解した教皇の講話の一部を実施してしまったのだ」「一人の教養ある信心深いムスリムから昨日メールをもらったばかりだが、初期イスラームが剣によって広まったのは本当なのに、どうして否定するのか、と述べていた」(2006年9月18日インタビューより(http://www.cedrac.usj.edu.lb/benoitxvi/sks60918en.pdf))。
実は、世界キリスト教協議会(WCC)には、ノートル・ダーム大学の国際平和研究所でイスラーム倫理と平和構築を研究中のA.Rashied Omar氏が、レーゲンスブルク講話にまつわる一部ムスリムの行為について、カトリックの信徒向けに謝罪する言葉で始まる文書が掲載されていました(http://wcc-coe.org/wcc/what/interreligious/cd48-04.html)。2006年12月に発行されたものらしいですが、読み進めていくと、「教皇イスラームを含めずに言及すべきだった」などと、結局は教皇イスラーム理解不足を責め立てているような論調です。この文書には、Ibn Hazm(994-1064)についての言及もありますが、これは故ワット教授の『ムスリムとクリスチャンの遭遇:理解と誤解』(1991:65-67)に出てくる話といささかニュアンスが異なります(参照:2008年6月13日付「ユーリの部屋」)。

結局のところ、ムスリムイスラームクルアーンおよびハディース)が許容する範囲内でキリスト教を理解するだけで、ある面でクリスチャンやその他の宗教の人々のお世話になった部分があったことを認めたとしても、あるがままのキリスト教を理解しようとはしないのかもしれません。

今朝、続きを読んでいたMark Beaumont博士の"Christology in Dialogue with Muslims: A Critical Analysis of Christian Presentations of Christ for Muslims from the Ninth and Twentieth Centuries"(2005)にも、クリスチャンが信じ実践している事実をクルアーンが否定するので、ムスリムとの対話は9世紀から現在に至るまで失敗しているということが、繰り返し述べられていました(参照:2008年3月29日・5月21日付「ユーリの部屋」)。歴史的事実として聖書外文書にも記載されていることなのに、クルアーンが否定しているからといって、クリスチャン達のアイデンティティムスリムが侵害していく動きが、ここ20年ほどマレーシアでも観察されるので、このような本へ向かったわけですが、何ともやりきれない気持ちになります。また、ムスリムとの対立を避け、協調路線を採択しようとしたJohn HickやHans Küngのようなキリスト教神学者の場合、新たな問題を抱えることになったそうです。すなわち、主流の大多数のクリスチャンはその主張を受け入れないということです(p.208)。
我々が大変な時代に生きていることを意味しますが、本当にこれからどうなってしまうのでしょうか。

冒頭にも書いたように、昨日の午後は、2時30分から4時45分まで、日本基督教団東梅田教会で第67回教会音楽連続演奏会が開かれたので、一人で参加してきました(主人は風邪ひきのため休養)。2008年5月8日付「ユーリの部屋」でも書いたことですが、予想以上に人出が多く、電話予約しておいたのに、立見席かもしれないとまで言われました。結局は、席を詰めていただき、何とか座れましたけれども、会場は三桁の人でいっぱいでした。街の教会なのでこうなるのですが、それにしても去年以上の集まりで、それだけ人々に求めるものがあるのだなあ、と感じた次第です。讃美歌8曲にパイプオルガンでのバッハ独奏2曲、延原武春氏指揮によるバッハの“Jesu, meine Freude"(BWV227)が学生さんらしき若い男女の弦楽伴奏付きドイツ語で歌われました。
私も合唱団に入れば、続けているドイツ語も多少は活かせるかもしれないと思ったのですけれども、主人に相談すると「楽器の方が歌より向いているよ」とのことで、あっさり却下。ただし、「ほらね。いくら大学の研究者が、これからはイスラームだって言っていても、日本の一般社会では、やっぱりキリスト教の方に軍配が上がるよ」とも言われました。

[後記]レーゲンスブルク大学での講演が引き起こしたムスリムの反発に対するリベラル派アラブ知識人の反論(メムリの引用)は、2008年4月21日付「ユーリの部屋」に掲載いたしました。(2008年6月17日記)