ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ひとコマひとコマを大切に

ショパンピアノ曲をラジオで聴いていたら、なぜかふと数年前の暮らしが思い出され、とても懐かしくなりました。隣町のショッピングセンターに行って買い物をしたこと、その帰り道は、私が電車で、主人が寒い中を自転車だったこと、ショッピングセンターではヨーグルトが安かったので買ってみたことなど、何でもない平凡なひとコマなのですが、無性に懐かしいのです。当時も、将来が不安で定まらず、こんなことをしていていいのだろうか、という気持ちでいっぱいでした。今になってみると、それらの心配はいつの間にかクリアできたものの、その分時は確実に経ったのだと感じます。また、その時はその時で、充分幸せだったじゃないの、とも思うのです。

お隣に住んでいたご夫婦のベランダには、いつも二人分のお布団が仲良く並べて干してありましたが、2007年12月16日付「ユーリの部屋」にも書いたように、気づいた時には、ご主人の方が亡くなってしまっていました。今日もたまたま用事がてら見上げてみたのですが、お布団は奥の方に一人分だけ干してありました。
こういう何気ない一瞬一瞬の積み重ねが人生なんだなあと思います。キャリアだとか資格だとか学歴だとか、そういう表に見えるものだけが人生なのではなくて、それを支える一見平凡な暮らしのひとコマひとコマの方がもっと重要なのではないかとしみじみ感じるのです。

こんなことを考えるのも、数日前にある方から「肩書がないんですけど、いいんですか」と聞かれたからなのです。「肩書」ねぇ...この世の中、誰が私の「肩書」なんかに目を留めるんだろうか、そもそも、「肩書」なしに生きていてはいけないのだろうか、「肩書」がなければ、研究や勉強をしてはいけないのだろうか。
もし今の私が外で働いていたとしたら、主人の進行性難病はもっと悪化していたかもしれないのです。日常生活の動作に不自由し、ガリガリにやせこけてしまい、それでも働き続けている主人。そのおかげで、私もここまで勉強できたり発表が続けられたりしているのに、もし私が「私は私の人生。キャリアを追求して幸せな勝ち組よ」なんて豪語していたとしたら、寄ってくる人の種類がそれだけでも想像がつくというものではありませんか。

それに、何を教えればいいんでしょう?教えるためには、相当の下準備が必要で、しかも学力低下の噂がかまびすしい今の学校で、そちらに精力を傾けることで、本来、もっと読まなければならないはずの本が読めなくなるとしたら...?!

先程、うつらうつらしていると、夢を見ました。知り合いのE教授が、私におっしゃいました。「あなた、頑張ってこの会合に出てきたんだろうけれど、どうみても主婦の格好だね。主婦は主婦らしく生きる。これがいいんじゃないの?」

昨日もまた「マレーシアシリーズ」で、郵便物が三種、マレーシアから届きました。そのうちの、『カトリック・アジア・ニュース』には、本当に久しぶりに、私の友人の寄稿文が掲載されていて、ほっとしました。彼はたびたびこのブログにも匿名で登場していますが、ちょっとユニークかつ勉強好きなおじさんです。もともとは神学校で勉強し司祭になるための訓練を受けていたのですが、どうもカトリックの教義と彼の思想がぶつかることが多かったらしく、中途退学したのです。
彼の文章は、保守的あるいはナイーブなマレーシアのカトリックの信徒には一種の「毒」があるようで、批判もしばしば浴びていたそうです。ただ、「自分の信じているものは客観的に見なければ危ないだろう?それ、君ならわかるよね、研究しているんだもんね」という会話を、2000年か2001年か2003年だったかにしました。
今回興味深く思ったのは、「出エジプトの史実性」に関する短いエッセイです。この内容は、数年前に日本でも某大学の講演会で聞いたことがあるので、どのようなアプローチをされるのか、読んでみました。その続きはまた明日...。