ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ムスリム指導者の公開書簡 (1)

2007年10月29日にマレーシアから届いたカトリック週刊新聞『ヘラルド』には、2007年10月24日付「ユーリの部屋」と2007年10月23日付“Lily’s Room”でも言及し紹介した、ローマ教皇キリスト教指導者層へのムスリム指導者による公開書簡に関するカトリック学者Fr. Prof. Dr. Samir Khalil Samir, sj(1938年カイロ生まれ)の分析記事が掲載されています(後半部は明日)。例によって、ユーリが記事を筆写入力したものを2007年10月31日付“Lily’s Room”に載せておきました。ご興味のある方は、どうぞ参考になさってください。

キリスト教内での保守派かリベラル派かという固定化したレッテル付けから離れてこの分析を読んでみると、ところどころに多少、イスラームに関する古めかしい表現や綴りが用いられていることを除けば、最初に私がこのムスリム公開書簡を読んだ時の印象とほぼ重なり合います。ムスリムの聖書引用の仕方がクリスチャンの聖書解釈と異なること、英語訳ではなくアラビア語原文で読むとニュアンスが違うことには注目すべきです。さらに大事な点として、最後の段落に書かれている、ムスリムの聖パウロ使徒パウロ)に関する認識の特徴が挙げられます。ムスリムは、パウロイエス・キリストのメッセージの裏切り者であるとみなし、三位一体の概念や十字架による贖いやモーセの律法の否定を導入したためパウロを拒絶していることも、特にキリスト教側は知っておく必要があります。
もっとも、現代神学では既に、新約聖書に書かれている範囲内では、イエスの説いた福音とパウロ神学の福音には相違があると指摘されています。私自身も、学部生の頃からまじめに聖書を読むようになり、カトリック幼稚園やプロテスタント教会で習った教義との兼ね合いに悩んだ時期もありました。そうであれば、なぜ、クリスチャンはクリスチャンなのか、また、ムスリムがこれほど否定してもなお、キリスト教キリスト教たる所以は何か、という深い論考へと進まなければならないでしょう。

なお、マレーシアのキリスト教は、日本と比べて保守的な正統的信仰が中心となっています。自由主義神学などは、翻訳本や海外留学などを通して、神学上の知識として知ってはいても、指導者自身が受容を拒否するのです。それは、民族問題やイスラーム化の進展に伴うアイデンティティ模索の結果でもあり、一般人の生活習慣に伝統的な考え方が残っているためでもあります。

余談ですが、私がマレーシアのキリスト教や聖書翻訳について長く調べていると、日本では、「ウィクリフの聖書翻訳ですか」とか「カトリックなんですか」などと聞かれることが多いです。確かに、ウィクリフ所属の翻訳宣教師を何人か知っていますし、カトリックの幼稚園で育ちましたが、私は、あくまでUBS系の聖書協会を中心に見ていますし、プロテスタント教会で洗礼を受けました。カトリック情報の引用が多いのは、毎週と毎月、発行物がマレーシアから送られてくることと、言語別教会を調べるのに、プロテスタントよりも情報が整っていてわかりやすいからです。マレーシアのプロテスタント組織は、季刊誌あるいは隔月誌が中心、しかも英語で書かれたものがほとんどで、それに華語が時折混じる程度です。かつて、マレー語を用いた数ページには、当局からクレームがついたそうです。
また、マレーシアが好きで長く関わっているのかとか、マレーシアのような民族色の強い保守的キリスト教に惹かれるから調べているのか、などと勘ぐられたこともしばしばですが、私の場合、個人的趣味と研究との間に特に関係はありません。それは、このブログ日記を見ていただければ一目瞭然だろうと思います。むしろ、「自分の人生途上に生起した問題意識で、重要なテーマだと考えるから調べている」といった方が正確でしょう。

このような背景を念頭に置きつつ、この分析をお読みいただければと思います。時間の都合上、日本語の私訳は載せません。

一言申し添えれば、日本よりもマレーシアの方がこの種の情報には敏感で、早く報道されることが多いです。日本では、翻訳を待っているからなのか、日本の宗教状況に安住したまま世界を眺めているためなのか、キリスト教共同体が小さくて弱体化しているからなのか、あるいは、忙し過ぎて構っていられないのか、いずれにせよ、私の知る限り、反応がちょっと遅いです!また、先行研究をよく調べないまま、安易に発言する日本人研究者もいらっしゃるようで、それも問題ありです。いずれにせよ、この分野に関しては、マレーシアと交流する上で、ズレが生じないよう充分留意する必要がありそうです。