ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

日高義樹氏の新春特別講演会

1月21日(土)午後、大阪市内で開催された日高義樹氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121021)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160719)の新春特別講演会および談話会に出席してきた。
北米を中心に主にワシントンで取材を積み重ねた長年の経験から、トランプ氏の大統領選出を見事に的中させた経緯と現在のアメリカ動向、今後の日本のあるべき方向性を示唆する内容で、ちょうど前日に出版された見事にタイムリーなご著書『トランプ登場は日本の大チャンス−新しいアジア情勢のもとで日米関係はこう変わる』(PHP研究所 2017年1月20日)のサイン会も兼ねていた。
昨年12月に北御堂や高津宮を見て回った時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161208)、信号待ちでふと民家の壁に貼ってあったポスターを見て、私はこの講演会を知った。
何年か前まで、テレビで『日高レポート』を主人と一緒に面白く見ていたこと、1980年代の古いご著書に何冊か目を通していたこと(『「日本一流国家論」を嗤う!』(飛鳥新社 1986年)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160114)『アメリカ・パワー・エリートの驚くべき日本観』(潮出版社 1987年)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151225)等)、中でも、レーガン政権当時のリチャード・パイプス補佐官(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%EA%A5%C1%A5%E3%A1%BC%A5%C9%A1%A6%A5%D1%A5%A4%A5%D7%A5%B9)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=Richard+Pipes)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/archive?word=%22Richard+Pipes%22)がホワイト・ハウスで日高氏に語った言葉「次は『平和』宣伝攻戦をかけてきますよ」が、まさしく見事に的中したという一文が印象的だったこと、日本国憲法や原爆投下や日米安保の行く末をテーマとした最近のご著書も入手して読んでいたこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150806)、何よりも、亡くなった父と同い年の昭和10年しかも名古屋市生まれ(但し、ウィキペディア情報によれば「愛知県知多郡東浦町出身」で「愛知県立刈谷高等学校」卒とある)で、戦後の新制教育を受けたエリート世代であることが決め手となり、お会いするなら今だと直感して、ローソンで前売りチケットを入手したのだった。
病気のこともあってか、物事に固執してこだわる性格がとみに強く出るようになった主人が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170103)、「ペア・チケットならば安くなる」とか、「指定席だから充分間に合う」とか、「まだチケットに残部がある」とか、「場所が社会福祉会館だから、大して人は来ないだろう」などと、インターネットをカシャカシャやりながら私を説得しようとしたのだが、国内外での大学や研究所の講演会などで慣れていたので、「そんなネット情報からの素人判断は、全く無駄だ」と私は断言。
押し問答の末、私のみチケットを買って、一人で出かけて行くことにした。
最寄りの地下鉄駅からタクシーに乗ったが、運転手さんも初めての場所で知らなかったらしく、ギリギリの時間になってしまい、結局は10分遅れで到着。
大阪府社会福祉協議会という昭和時代の古い五階建てのビル、しかもいかにも今では左派思想の建物らしいのに、そこへ保守派の現実主義者である日高氏が200名もの集客力を動員したという対照が、非常に面白かった。
また、大変に申し訳ないことだが、主人は全く外れていたことも判明した。
どういうことか。一つは、主人が元気で毎月のように渡米していた頃から(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131220)、やむを得ない難病のために一線を離れて久しいということがある。これは致し方ないことだ。だが、私なりに、欧米の会合のやり方を会得する機会に恵まれたということの方がもっと大きい。
例えば、昨年10月1日のストックホルムhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161009)での会合の事例がある。
実は、パイプス旅団の日程が全終了後のことなので、無料ではあるが、参加希望者は事前にメールで出席を申し込まなければならないと、出発のしばらく前に連絡があった。勿論、私はすぐにメールを送ったが、蓋を開けてみると、英語圏の旅団メンバーのほぼ全員が出席だった。
こういう一種の駆け引きは、パイプス先生お得意の方法で、私は自然とここ数年のうちに学んでいる。
場所についても、表向きは宿泊ホテルから徒歩20分ほど離れた、観光旅行者向けの通路にあるパブ・レストラン。休憩時間にワインとハムも軽食として振る舞われたのだが、その地下室が会場というのが鍵だった。名付けて、「コメディ・クラブ」。
こんな場所で、ぎっしり立ち見席まで超満員の中、パイプス先生や英国人の人気論客であるダグラス・マレイさん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160726)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160802)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161024)など、熱気のこもった演説が次々と披瀝されたのだった(http://itunalily.jp/wordpress/)。皆、興奮して顔を紅潮させ、拍手喝采が度々。内容は、一応は警備付きだったと言えば、充分であろう。
警護の関係もあって、こんな場所を選んでいるのだ。その代わり、本音でバンバン語る。
途中で後ろを振り返ると、何と演壇から降りたパイプス先生までも、若い青年時代に戻ったかのような生き生きした表情で、身を乗り出していた。
その頃には、旅団メンバーの中にすっかり溶け込んで、不思議なことに、アジア系移民のアメリカ人かカナダ人かオーストラリア人になったかのような感覚を抱いた私だった。
日本の大学などで、形式張って科研費による研究会等と、わざわざパンフレットに麗々しく書いてあるものもあるが、私の限られた経験では、大抵、退屈だ。
それよりも、こういう真に活気ある話ならば、場所がどこでも必要が満たされるのだと言えよう。
著名人の講演会というのは、ただ、お顔拝見だけでは勿体ない。勿論、講演がきっかけになって理解が進むということもあるが、やはり、普段の下準備があってこそ、発話の一つ一つの軽重や判断の的確さなどが自分でも会得できるのではないだろうか。千載一遇の好機とは、まさにこのことを指す。

日高先生の講演会では、赤いネクタイに赤いチーフを胸にさし、赤いクリアフォルダを手にしていらした。勝負色は赤だとよく言われるが、共和党GOPの色が赤だからでもあろう。居眠りもお喋りもなく、皆さん非常に熱心に聞き入っていて、質疑応答も活発だった。
その後はサイン会。細長い白い番号札を持ち、自分で名前を予め書いておくと、日高先生がそれを見て、「恵存 ○○○○様」とペンで書いてくださったのだ。
これまで、日本のいろいろな著述家の講演会や会合に出掛け、ご著書に記念サインをいただいてきたが、有名な方でもこの頃では「恵存」を使えない世代が目立つようになり、内心、がっかりしていた。でも、やはり日高先生は日高先生でいらした。
その後、十分ぐらい歩いた先に場所を移し、和やかで本音に近い熱心な談話会が始まった。目算では、三十人以上が集まった。
おつまみとお茶をいただいたが、他の人はビール。すっかり好好爺風になられ、村山富市氏のように眉毛が伸びた日高先生は、牡蠣が好物だそうで、姫路から直行した貝殻つきの湯通しした牡蠣を、私達も一つずつ、レモン汁でお相伴に預かった。飛行機の時間までご一緒できるとのことで、日高先生はタイ風カレーを召し上がり、ビールを三杯ほど飲まれ、とても80歳を超えた方とはお見受けしなかった。
ともかく、初めてだったが雰囲気が和やかなのに甘えて、質問の時間になったところで勇気凛りん、私が真っ先に挙手して「リチャード・パイプス補佐官」のお名前を出したら、日高先生は「日本女性がリチャード・パイプスさんを知っているなんて」とびっくりされた。
日高先生がおっしゃったように「世界は狭い」というよりも、私にとっては、遠方から突然降って湧いたような不思議な巡り合わせでしかない。まさに僥倖である。
帰宅後、しばらく休んで頭を冷やしてから、ご子息のダニエル先生にメールで簡潔な報告を送ったところ、「このメールを両親に転送したからね」と喜んでいた。
冷えと疲れから、珍しくも少し風邪を引いてしまったので、今日はこの辺で。明日、この続きを書きたい。