ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ワークショップに出席して....

昨夕は、6時から9時近くまで、同志社大学神学部の先生方と院生の方達に混じって、スイスのチューリヒ大学神学部長のSamuel Vollenwider教授を囲むワークショップに参加させていただきました。
2008年3月25日付「ユーリの部屋」で書いたように、またドイツ語での講演なのかと楽しみにしていましたが、実際には英語のハンドアウトが用意され、先生も英語でお話しになりました。
各自の自己紹介は、英語でもドイツ語でもよかったようなので、私も即席ドイツ語で何とかご挨拶させていただきました。和気あいあいとした楽しい雰囲気から、一瞬シーンとさせてしまったようで、はやりのKY「空気読めない人」って私みたいな者のことを言うんだろうか、ともちらりと思いました。でも、先生も時々は日本語を使ってくださるのだから、遠慮することもない、ですよね?ただし、マレーシアと長くかかわっているせいで、言葉の正確さがますます乱れてしまい、何が文法的に正しくてどのような表現を用いるのが適切なのかの基準が、かなり曖昧になってしまっているのが、本当にくやしいです。もっときちんと厳しく(はやりの「楽しく」ではなく)ドイツ語を学び直したいと強く思います。時間の調整とお金、これが目下の課題です。来月からは、ラジオのドイツ語講座も20分から15分に短縮され、レベルも随分‘迎合’したものになりそうなので、早いところ、自分なりの学習法を再確立しなければなりません。思えば、私の学部生時代は、ドイツ語講座の投稿欄も、工学系大学教授やドイツ駐在経験者などが含まれていて、それなりの風格と格調が保たれていたと記憶します。最近は、楽しさばかりが強調されて、学習者層は広がったものの、心地よい緊張感からはいささか遠のいたようにも思われて、個人的には残念です。なぜかと言えば、ピアノなど楽器演奏の練習と同じで、外国語は厳しく正確にきちんと仕込まれない限り、いつまでたっても不安感が残り、達成感からは程遠いからです。

言語学習と言えば、イスラエル人の先生もお隣に座られたので、誤ってお流れになってしまった某大学でのヘブライ語学習の件について、お尋ねしました。さすがは、本場の専門家だけあられて、「学ぶのに遅すぎるということはありません。ただし、何のためにヘブライ語を学びたいのか、その目的をはっきりさせてください。聖書ヘブライ語は、システマティックに勉強しないとだめです。その点、現代ヘブライ語の方が簡単です。この大学でも日本人の先生が聖書ヘブライ語を教えているけれども、学生を対象としているので、それほど水準が高いわけではありません」とはっきりおっしゃいました。若い学生さん達とは楽しそうに振舞われていても、歳をとった私には、さすがにプロフェッショナルな態度でいらっしゃいます。そういえば、私のドイツ語自己紹介でも、Vollenwider教授は厳しい表情で見つめられていました。
そもそも学習を思い立ったのは、マレー語聖書翻訳の歴史を調べる経緯で、原語のヘブライ語アラム語ギリシャ語を知らないために、なぜ翻訳者がそのように訳しているのかがつかみにくいという弱点を自分なりに感じたことに由来します。マレー語翻訳の対比はできるのですが、また、マレー語そのものの特徴からくる独自の訳し方はわかるのですが、オランダ語や英語やインドネシア語の聖書を参照しながら訳したのが現在のマレー語聖書なので、重訳のそしりを免れず、もともとシンプルな翻訳が余計に問題を抱え込む結果となっているのです。そのために、少なくとも文字が読めて内容が把握できる程度には、原語を学ぶ必要性に駆られていました。
そのイスラエル人の先生は、本国にいらした時、サハラ砂漠以南の各国のアフリカ人達にヘブライ語を教えていたのだそうです。アフリカでは現在、キリスト教宣教が盛んなため、聖書翻訳活動も活発化していて、翻訳の前提としてヘブライ語を学びにイスラエルに来るクリスチャンのアフリカ人がいたのだそうです。中には非常に優秀な人もいたのだとか。「じゃあ、聞くけれども、あなたはマレー語どのぐらいよくできるの?」と先生に問われて、思わず難しいなあと思ってしまいました。以前もこの「ユーリの部屋」で書いたように、マレー語は、試験を受けて組織的にきちんと習得したのではなく、会話教室の他は、テレビのマレー語ニュースやマレー語新聞を一生懸命見聞きするようにして学んだというのが、正確なところです。しかも、社会言語学的にも心理的にも微妙な側面を含むために、こちらも受け身的になってしまい、どこまでマレー語ができるのか、わからないというのが本当のところです。マレー人の言語学者によっても文法説明が異なることもあり、その点で非常に学びにくい言語でもありました。一方、ドイツ語やスペイン語なら、少なくとも検定試験の中級までは合格しているという安心感がありましたし、辞書も参考書もそれなりに揃っています。書かれたものを読むのも視野を広げ高める点で意義深かったので、多少の苦労は決して無駄ではないのです。また、学習の初期には、信頼できるよい先生にも巡り合えました(参考:「ユーリの部屋」のプロフィール欄)。

というわけで、ワークショップ以前に、来し方行く末を再考させられた夕べとなりました。曲がりなりにも自分なりの研究テーマを持ち続けられたのは幸せでしたが、若い時に志を立てて、きちんと特定の組織や師に属するという経過を辿っていないために、自分の実力を客観的に証明できるものがないのが、不利でもあり不安定でもある所以です。

ワークショップの内容は、ご講演内容と合わせて、まとめて書ければと思います。名誉教授のH先生が、お別れに「機会があれば、またどうぞ」とお声をかけてくださったのが幸いでした。雰囲気は実に和やかで楽しいものでしたが、先生方も含めた参加者からの質疑応答に幅があり過ぎて、もっと専門的に焦点を絞ったお話の方がよかったかと素人なりに感じました。張り切ってルター訳聖書も持参したのですが、一度開いたのみで終わったのが、なんとなく空振りした気分でした。