ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

インターネットと情報公開

昨年12月から今月にかけて、買ったり借りたりしたCDを記すのを忘れていました。別にわざわざ公表するまでもないことですが、せっかくの習慣ですから、書くことにしましょう。
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲 第1番/第2番」レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)・パッパーノ(指揮)・ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 2005年 EMI Classics
ラフマニノフピアノソナタ第2番Op.36(1931年改訂版)」/ショパンピアノソナタ第2番Op.35≪葬送≫・子守歌Op.57・舟歌Op.60」エレーヌ・グリモー(ピアノ)2004年 Deutsche Grammophon
ブラームス「ヴァイオリンソナタ 第1番-第3番」ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)・ピョートル・アンデルシェフスキー(ピアノ) 1995年 Philips
・“Cantatas from Leipzig 1724” Johann Sebastian Bach” Bach Collegium Japan/鈴木雅明 カンタータ25 BWV78(Jesu, der du meine Seele)/BWV99(Was Gott tut, das ist wohlgetan)/BWV114(Ach, lieben Christen, seid getrost) 2004年 NEC

ところで、私の知り合いには、「ネットは怖いので近づかないようにしている」という大学関係者がいます。「メールアドレスも、年賀状にさえ書かないように注意している」という人もいます。ある人のブログでは、大学のホームページと連携しているせいか、「いつどこで誰に見られてもいいように、注意しましょう」などと記していました。中には、「裏サイトまで調べて自分の評価を気にしている」人さえいるらしいです。ところで、裏サイトって何なんでしょう?
「お前も気をつけろ」「だから、いちいち読んだ本や聴いたCDなんか書くな」という意味なのかもしれませんが、主人ともども、どこをどう調べられても私は私。それ以上でもそれ以外でもなく、別に法律違反をしているわけでもないので、ここは一つ、表現の自由言論の自由、ということでお許しいただければと思います。個人情報やプライバシーと言っても、別に隠さなければならないようなことは何もしていませんし、変な人や組織には、こちらから近づかないように留意しています。
小学校時代から新聞投稿を始めた私は、どのような発言や文章でも、その場その場で一生懸命に考えて、自分なりに責任を持っているつもりなので、後で間違いだとわかったとしても、それはそれで誠意をもって謝るしかありません。家計簿や日記やメールなどと同じで、見られて困るようなことは、最初からしなければいいのです。
それでもまだゴタゴタ言ってくる人は、子ども時代から結婚前まで、さんざん迷惑させられましたので、すでに免疫ができていて、接近してこようものなら、こちらから丁寧に熨斗をつけて返却です。人生は、そこまで悠長でもないので。
むしろ、せっかくのツールをうまく使いこなさないで、委縮している方がもったいないです。私の場合は‘謙虚’なつもりで黙っていたら、いいようにあしらってくる人を何人か経験したことから、やはりある程度は自己表現していかなければわからない人も増えてしまったのだと思いました。昔は、ある程度見抜いて、それなりに接してくださる方も多かったような気がしますが。

ちなみに、以下は、実際にあった我々夫婦の会話です。

主人「マンモグラフィーの話とか、下品な内容なものは除いて、もうそろそろ、ブログからちゃんとしたホームページに移行したら?」
私「どうしてマンモグラフィー検査が下品な話なの?」
主人「だって下品じゃないか」
私「乳がん検診が下品なら、胃がん検査なんてもっと下品だ!バリウム飲むもん」
主人「それは、男も女も一緒だからいいの」
私「それはおかしい!だったら男の人も前立腺がん検診すれば?町内の広報にも“マンモグラフィー検診を受けましょう”って書いてあるのに、それ見て下品って思う方がどうかしてるんじゃない!」

第一、体の部位に下品も何もないでしょう?その昔、若い身空の私も、世界各国からの留学生に向かって、体の部位やら病気の症状やら、日本語を教えていましたが、緊急時には、下品なんて言っていられません。現に、留学生寮でも、持病や急病で、救急車で泣き叫びながら運ばれて行った留学生が何人もいたんですから。それを思えば、今の私の生活文章なんて、ずっと上品ですよ!!
というように、家庭内でも、あまりおもしろくもない会話をしているので、どうってことないんです。

あ、そういえば、一つだけ言いたいことがあります。
数年前、政府が言論統制しているマレーシアの地元新聞にもニュース記事が掲載された、ある言語版聖書にまつわる事件を論文に書きました。すると、「この内容ではムスリムが反発する。筆者の宗教的党派心から書いていると思われても仕方がない」という査読コメントが来ました。(へぇ、日本でそんな発言が?)と、まず驚きました。学問の自由の保障は、一体どこにあるのでしょうか。
その聖書は、言語から見ても、人口配分から見ても、まずもってムスリム向けでないことは明らかです。「自分達が混乱するから、キリスト教徒はそういう用語を使うな」と言ってきたのはムスリム当局の方なのです。迷惑しているのは現地クリスチャンの方なのに、どうしてそれが私の宗教的党派心(?)とやらと結び付けられるのでしょう?そんなこと、生まれて初めて言われました。
「混乱とはいかなる混乱なのか」とも査読者は書いてきたのですが、それはこちらが聞きたいぐらいです。1980年代から昨年のクリスマス前に至るまで、常に「混乱する」の一言で一方的にキリスト教文献を押さえつけてきたのは、マレー当局なのですから。
結局、その論文は一応通りましたので、本来は公表すべきことではないかもしれません。しかし、理不尽なことは、公に透明化して正していかなければならないと思います。目的は個人攻撃ではなく、あくまで筋の通らないことを平気で通そうとする行為そのものです。だとしたら、恐れるものはネットではなく、私自身でもないでしょう。