ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

神戸バイブルハウスにて(3)

この歳になると、セミナーに出ても、若い頃のように無我夢中で知識の吸収に努めようとは思わなくなります。いわば、学生時代に得た知識を基に、応用編として、自分なりの人生体験と照らし合わせながら、お話を聞くようになるからです。人の一生のうちには、さまざまな段階があり、常に同じ姿勢で勉強に向かえば、一直線的に能力も上がるというほど単純なものではなさそうです。

白方先生のお話をうかがいながら、同じパウロ書簡を読むのでも、脳外科の専門医はそういう解釈をするのか、と新鮮な思いでした。これは、聖書学などを学び、牧師資格試験に合格して説教壇に立つのとは、また違う趣でしょう。各界の専門家が、同じ聖書の箇所について、ご自身の体験と学識に基づいてメッセージを組み立て、一つの本にまとめたら、おもしろい企画になるのではないか、とも思いました。
ところで、初回と第二回目のお話は、受講者の多くが、昼間に出席できるような中高齢者だということもあってか、それほど高度な専門的な用語が出てきたわけではありません。まずは、脳の構造(大脳・間脳・脳幹・小脳)の説明が、OHPの図で示されました。でも、昔学校で習った脳のしくみよりも、さらに複雑な部位名が出てきて、おもしろく思いました。例えば、シルビウス溝、大脳辺縁系の乳頭体、脳弓、帯状回とそれぞれの英訳は、初耳でした。

用意されたレジュメは前半の時間で終わり、お茶の休憩をはさんで、ソファーに座ったまま、めいめいが自由に先生に質問をする形式に入りました。にわかによろず医療相談所のような様相となり、受講生がご自身や知り合いの健康上の心配事を打ち明けたり、二十五年前に白方先生に病院でお世話になった元患者さんがお礼を述べたりしました。
先生への質問として集中した項目は、やはり信仰と病の関係です。中には、社会復帰不能と言われてずっと病院に入ったまま、信仰的には一筋で、周囲に熱心に伝道する人生を送っているという、てんかん持ちの遠縁の事例を話された方がいらっしゃいました。こういうケースは、医師としても対処が難しいところでしょう。確かに、信仰を持てばよりよい人生になり、数々の問題を克服できるようになるとはいっても、治療効果がなく、社会生活を知らずに、信仰だけで生きていくというのは...。「てんかん」と言えば、福音書の中にも出てくる有名な症状ですが、先天性と後天性があり、その人のケースは恐らく前者ではないか、とのことでした。
また、信仰万能主義とでもいうのか、「祈ればガンも治る」と誇大宣伝するキリスト教のグループが一部にあり、日本基督教団の教会へも、それを期待して来る人が時々いる、という話も出ました。確かに、祈祷することで、病気によっては免疫力が上がって治るケースもあるでしょうし、科学的に見て治る時期に、たまたま祈祷していた、という場合もあるでしょう、とのことでした。しかし、医学的に治療する手だてがあり、可能であるとわかっているなら、恩恵は利用すべきである、祈りで病気を治すと主張するのはどうか、というお答えでした。
数年前にストレスで倒れて後頭部を打ち、手術の結果、一部記憶がなくなってしまったという人の話もありました。ただ、信仰によって乗り越えようとして、相当な努力をされているようです。セミナーのお話も、毎回ノートにびっしりと文字を埋めて記録をとられていましたし、日曜日にも教会一つでは足りないので三つの礼拝に参加され、その他に十人ぐらいの祈祷会に入って一緒に祈ると、かなり記憶喪失の症状も改善してきた、とのことです。生きる意欲の非常に強い方だなあと思いました。

ところで、昨日書いた≪ユーリの質問≫に対する回答を、うずうずしてお待ちの方もいらっしゃるかもしれませんので、当初の予定を変更して、まずは、私の理解した範囲で先生のお答えを書くことにいたします。ただ、先生は何度か、「私の考えを言っているだけです」「それは専門ではないので」と念を押されていましたから、あくまでも参考意見の一つとしてご理解いただければと思います。

1. に対して
手術なら、信仰の有無にかかわらず、腕のいい医者にかかるのがよい。ただし、人間関係はクリスチャンの医者の方がずっとよい。手術までの話の持って行き方やその後が、信仰を持つ医者は違う。

(ユーリ注:私が質問している間、うなづかれている方もいらっしゃいましたし、先生のお返事に対しても、どこか思い当たる節でもあるのか、皆さん思わず笑っていらっしゃいました。なるほど…。確かに、現実的なお答えです。)

2.に対して
まだ40代ぐらいの頃、関係していた大学のクリスチャン学生で、若くして病で亡くなった人がいる。彼の場合は、「一足先に天国で待っていますから」と健気に挨拶して、安らかに旅立っていった。信仰者は、この世に生きながら、既に別の世界にも生きている。信仰を持たない人とは、価値観が違うのである。天国は、どこにあるのかわからないし、目に見えるものでもないが、パウロ(ユーリ注:先生は「パオロ」と発音されているように聞こえます)の述べるごとく、死後には新たに体が変えられて、御許で生きることになる、という希望を持つのが、信仰の在り方である。死は、天国への凱旋である。(ユーリ注:無教会の方たちは、「凱旋」という表現を好まれます。)内村鑑三の「ルツ子さん、万歳!」と同様である。一方、そのような信仰を持たない人の場合、死に際して、結局のところ、あきらめていく。どうやら人は、自分の死が近づいたことがわかるようで、その時、信仰者の態度は落ち着いている。(ユーリ質問:「それは、自分の意思でそうしているのですか、それともホーリー・スピリット(聖霊)の働きによるものですか」)それはどうなのか、はっきりとはわからないが。(以上)

第一の質問は、実は主人の実体験から来ているものです。数年前のことですが、ようやく診断がついた後、とりあえず現代医学では不治で進行性であることから、「治療を受けるならクリスチャンのお医者さんに」と主人が言い出したのです。そこで、淀川キリスト教病院へ一緒に行きました。ところが担当の先生は、主人を検査した後で、クリスチャンかどうかを尋ね、そうではないと答えると、「では、せっかく大学病院にかかっているなら、わざわざここへ変わる必要もないでしょう。あの大学病院にも優秀な先生がいますし、治療方針としては、キリスト教病院であろうが非キリスト教専門病院であろうが、同じですから」と言われたのです。主人としては、精神面での丁寧なケアがほしかったようで、当時は少々がっかりしていました。
ただ、その時に改めて認識させられたことは、「クリスチャンの医者であろうが非クリスチャンの医者であろうが、治療の仕方には違いはない」という科学的な原則です。ともすれば、福音書には病気治しの奇跡が描かれているので、単純に文字通り受け取る人々にとっては、キリスト教は病気も治す万能信仰という誤解を与えているのかもしれません。しかし、白方先生も院長をされていた淀川キリスト教病院で、極めて常識的な助言が与えられたことは、主人にとって、非現実的で過大な人生への夢を抱かず、むしろ地に足をつけた日々の暮らしを大切にするように、という教訓でもあったと思います。(余談ですが、病人心理とはまことに不可思議なもので、不治の病とか難病の診断が下されると、俄然、「絶対に治してみせる」「病気が治って、遅れた分を取り戻して、また元のようにバリバリできるなら、いくらお金がかかっても安いもんだ」と躍起になるケースもあるようです。うちの主人も、一時期そうでした。いくら私が止めても、聞こうともせず、あちこち文字通り新幹線や飛行機で飛び回るので、ほとほと疲れました。ここで、いかさま師にひっかかってしまう悲劇も発生するのです。皆さまも、どうぞお気をつけください。)

さて、古今東西を見渡せば、医療、教育、社会福祉の現場で、クリスチャンが比較的多く活躍してきたという事実は、何を物語るのでしょうか。卑近な回答でしかありませんが、これらの分野は、特に命、魂、霊性にもっとも近い領域なので、信仰的にも響くものがあり、大きなやりがいを感じるからではないかと思われます。

ただ、クリスチャンの医師と信仰を持たない医師との違いは、先生がおっしゃったように、単に人間関係の作り方だけなのでしょうか。クリスチャンでなくとも腕のよいお医者さんが多いということならば、クリスチャン医師の使命感および独自性は、どこに置かれるべきなのでしょうか。白方先生のかかわっていらっしゃった病院でも、先生に叱られて円形脱毛症になった事務官がいたり、うつ病になった職員もいるとお話されていました。そうすると、クリスチャンだからキリスト教だからと画一的にとらえるのは誤りで、「人を見て法を説け」のひそみに倣いつつ、各人の資質がうまく発揮できるような環境作りが必要なのかもしれません。これについては、落ち着いてよく考えてみなければならないテーマだろうと思います。

話はやや飛躍しますが、キリスト教系学校の昨今の問題として、教員のクリスチャンコードを外すとキリスト教アイデンティティが揺らぐ恐れが出てくるが、もしクリスチャンの教員だけを採用するならば、アカデミックな資格や質が下がるという指摘がなされています。キリスト教が社会の近代化を促し、先進文明の担い手であったという自意識を有するならば、このような事態は、本来矛盾することでもあります。一方、信仰というものがなければ、批判的精神が旺盛になり、教会や教義上の縛りがないため自由な発想ができ、その結果、学問も進展するという考え方もあります。私自身は、それは表面的一時的なものであると思うのでそのような意見に与しませんが、学校の水準問題となれば、再考の余地が大いにあります。つまり、「専門能力がちょっとねえ、でも人間的にはすばらしい」というタイプのクリスチャン教員を採用するのか、それとも、「信仰がなくとも専門的には秀逸である」として非クリスチャン教員を選択するのか。使命感を持っていても、技能的に水準に満たなければ、お払い箱にするのか、それとも、使命感が業務遂行を支えるだろうと考えるのか。・・・私の質問の背後には、そのような内的議論が隠されていたのです。

第二の質問に関しては、仏教や神道の方、そして無宗教でも、とても安らかに逝かれた方の話もよく耳にするので、個々の事例をもう少し詰めていかなければ、答えは出ないかもしれません。私の知るある日本人ムスリムの奥様は、もうずい分前に、ガンのため、キリスト教ホスピスで亡くなられたそうですが、その場合の宗教的ケアの実際もおうかがいしたいところです。ともすれば、キリスト教系病院は、「クリスチャン改宗者を増やす手段だ」とも受け止められかねないので、その辺りの方針や実態を明確に理解したいと思っています。そして、仏教系ホスピスとの違いも...。

昨日から感じていることですが、このテーマは非常に重く、まじめに考えだすと、文章が出てきにくくなります。いつものような研究や日常のテーマなら、いくらでもあふれるように書けるのですが。ただ、この点をきっちりと把握することで、生き方に対する意識が突如変わってくることもまた事実です。まだ書き足りませんし、書き洩らしや細部の誤認も多いかと思いますが、ひとまずこの辺で...。