ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中原中也生誕百年記念(2)

繰り返しになりますが、中原中也は、今年が生誕100年、没後70年という区切りの年なので、あちらこちらで催し物が開かれています。ご本人や親戚一族(と言っても、中也の直系は断絶)にとって、さぞかし報われた気持ちだろうと思われます。私にとっても、やはり何だかうれしいものです。高校生から大学の学部時代にかけて、各種評論も含めて無我夢中で読み、心惹かれていた詩人が、こうして20年以上経つと、世間一般でリバイバルされているのですから。山口での記念館設立のみならず、詩の朗読や作曲されたCDまで出ているそうです。私の感性も、まんざら棄てたものじゃないんだと、ほっと安心したりもします。
2007年10月30日付「ユーリの部屋」では、10月27日に神戸女子大学での中原中也生誕百年記念会に参加した話を、一部書きました。(←残りの続きを書こうにも、他のテーマに押されて、なかなか…。申し訳ないことです。いつか必ず、自分なりの感想や考察のまとめを書くつもりではいます。)
そして、12月15日には京都朝日会館で、特に森鴎外がご専門だという近代文学専攻の立命館大学文学部教授(といっても、私の先輩ぐらいの年齢の方)から、中原中也に関する一回限りの講義を聴きました。
出席者は名簿によれば、計51名。老若男女で、教室は満員でした。立命館大学の学生さんをサクラで呼んだのでなければ、かなり人気のある教授らしいですね。私の目には、大学教授というより、一昔前の高校国語教師のようにも見えたんですが。サラリーマン風といってもおかしくないタイプの先生でした。教室の雰囲気は、詩を書いている人も多いと聞いた神戸の時とはまた一風違い、土地柄のせいか、どこか端正な趣がありました。この歳になると、(もう人生あと半分しか残っていない、遠慮していたらソンする)の精神が旺盛になり、若い頃のような「怖いもの」がだんだん減ってきます。ですから私は、10分前から最前列に席を取り、悠然と座っていましたが、講師の先生には、あいづちを打ったり笑みを添えたりなど、かなり協力的な受講者だったと自負しています?!
京都は中原中也の文学形成において、非常に大切な場所です。「山口→京都→東京→鎌倉」というのが、彼の人生行路において、重要な地名だと考えられます。そこで今回、新聞広告からセミナー開催を知って、「京都時代の中也」の話を重点的に聞いてみようと、早速、申し込んだわけです。

ところで、大学で若い層を対象に講義するのと、自発的意志を持って集うご年配の男女が半数を超える講義とでは、質的にも技能的にも異なるのは明らかでしょう。故千野栄一先生が、昔どこかで書かれていましたが、「カルチャーセンターなどの講座で、一年間、稀少言語を教えるのは、単位取得を目的とする若者の多い大学での授業と異なり、どこまで受講生を惹きつけるかという点で、かなりの力量が要る」。確かに、他の職業を持つ生活から、受講料をわざわざ払い、貴重な自由時間を費やしてまで学びたい人々に、満足のゆく講座を提供できるかどうかは、講師にとって一面厳しいものでしょう。次々とやめていく受講生が出るクラスなら、当然、講師も即刻クビです。一回限りの講演依頼で、その後はさっぱりということもあり得ます。また、講師が研究のみに没頭して世間知らずタイプならば、一般の人々の方が、はるかに幅広く教養豊かな場合もあり得るのです。そのバランスをどうとるかは、さしずめ大問題です。
さまざまな場所やいろいろなレベルの会合に出て行き、関連分野や関心を持つテーマの講演や講義を聴いて学ぼうと私が心掛けているのは、学生時代と異なり、まさに、その一見間接的な余白部分も総合的に吸収できるからなのです。その経験の積み重ねが、私自身の大学での授業や研究発表の時にも、充分参考になり、支えとなっています。いわば、ユーリ式の他流試合ないしは異業種間交流とも呼ぶべきでしょうか。特に、中原中也の場合、30歳で亡くなり二冊しか詩集がありませんから、特に予習しなくても、今でも話には問題なくついていけます。しかも、こちらはとうに中也の年齢を超えてしまったこともあり、中也に関する評価や研究の変遷もそれなりに知っているわけです。そして、私自身の内的外的変化も踏まえて再現拡大できるので、これほど楽しいひと時はありません。
閑話休題。そういう意味で、楽しみにしていた講義でしたが、そうですね、端的に言えば、神戸での第一部の方が、今回の京都でのお話よりも、はるかに意義深く、おもしろく聞けたと思います。神戸では、詩人兼文芸評論家の北川透氏による、実体験に基づく個性的なお話が楽しかったですし、京大名誉教授から、フランス語訳された中也の詩をテープで聞かせていただいことも新鮮でしたので。ただし、神戸の第二部は、上述の「ユーリの部屋」でも書いたように、いかにも準備不足の内輪話風で、実に興ざめでしたから、それと比べれば、立命館の先生の方が、さすがは研究者だけあって、分析的な説明で遙かによかったです。まあ、国文学科出身者にとっては、それほど鋭く新しい見方もなかったのですが。できれば、京都の具体的な地名や写真ぐらいは提示して、集中的に中也を語ってくださったならば、もっとおもしろくなったのに、とは感じました。でも京都人にとっては、それも自明のことかもしれませんね。私は名古屋出身なので、高校時代にはどうしてもピンとこなかった京都の地名が、結婚を機に、ようやく実体を伴って意味や背景がわかるようになってきたのですから。
とはいえ、この先生には、私自身、講義後もほとんど不快感がありませんでした。というのは、ご自身が冒頭から非常に率直な態度を貫かれたためであり、「ここに集まっていらっしゃる方は、恐らくは、私よりも中也の詩についてずっと思いが強いかもしれません」「朝日カルチャーセンターから、夏頃電話があり、にわか勉強しました。初めて中也について話します。講義ノートもあまり作っていないんです」と正直におっしゃったからです。(←だいたいにおいて、私が後々まで不愉快になる会合とは、その場や職位職階に伴う社会的期待に添った振る舞いがきちんとできない人がいたり、一部で自己中心なあるいは非常識な言動を展開している人がいたりするものです。)
そして、「人と違うことをやらないと」とおっしゃっただけあり、京都時代以前の中也の短歌(といっても、啄木の模倣に近く、かなり稚拙なもの)を説明されたり、立命館大学ご出身の先生らしく、立命館中学(今の高等学校に相当)時代の成績表の写しを見せてくださったりもしました。
成績表は推して測るべし、私が高校時代に担任だった国語教師から説明された内容そのままで(←Y先生、相当しっかり調べて授業されたんですね。私、あの時のこと、今でもよく覚えていますよ)、体育や数学は非常に悪く、国語は相対的によかったという程度でした。当然ですよね。名家の医者の長男が山口中学に落第して、世間体が悪いということで、京都に送り出されたんですから。生来の詩人肌だった中也が、立命館で一発奮起してやる気になったとは、到底思えません。出席率も悪かったと高校時代に聞きましたが、同じ話を、今回も聞くこととなりました。(←Y先生の余計なところは、年齢が同じだったこともあり、「あなた方は、こんな中也のまねをしてはいけません」と説教までしたことです。そういう授業からは、文学者は輩出されません!) 新情報としては、中也の成績表に「士族」と書かれていたことです。名家といっても地主庄屋系かと思っていたので、それは初耳でした。今では「個人情報保護法」とやらで、これは公開できないそうですけれども。
あとは、有名な「サーカス」の詩に小室等が作曲したCDを聞かせていただいたのですが、講師の先生いわく、「80年代にFMで何度か、もっといい曲の『サーカス』を聞いたんですが、CDショップで探しても、ないんですよ」とのこと。大学に正規職を得ているなら、いえ、得ていなくても、私なら、直接FMに問い合わせの手紙を書くんですが。そういうことをされない先生なんでしょうか。このCDは、谷川俊太郎・賢作親子らがプロデュースしたものなので、売れ行きをねらって、その曲を入れたのかもしれませんね。問題は、後代の評価がどうなるか、です。
私の左隣に座っていらした60代ぐらいの男性が、そのFMの曲をやはり聴いていたらしく、講義後、先生と楽しそうに会話をされていました。その方は、詩が大好きで、これから金沢に出かけるともおっしゃっていました。まあ、ご熱心で...。こういう話がちらっと聞けるところが、若者の集う大学講義とは一風違っていい点だと思います。
一方、同じCDに入っている草野心平による中也詩の朗読は、深い味があって感銘を受けました。詩は黙読ではなく、朗読されるものだというのは、本当だと思います。ちなみに、谷川俊太郎氏の自作詩朗読はいかにも現代風で、生でもCDでも、結構おもしろいんですが。
それから、スウェーデンからの留学生だという若い男性も一人、参加されていました。彼も、日本文学、特に中也の詩の研究をして、母国で紹介してくださるのでしょうか。そうなれば、こちらとしても、わくわくします。
河上徹太郎氏の評論も一部レジュメに引用されていました。戦前の文章なのに、今読んでも、さすがは的確な表現と鋭い視点だと思わされますね。若い頃、こういう文章に触れることができて、実利的には直接益するところなくとも、こうして歳を経るごとに、感謝したくなります。
そういえば、今回の講師の先生も、「学生にどんな本を読んだらいいかと質問されたら、百年以上たってもまだ読み継がれている本を読め、と答えている」とおっしゃいました。大学生にもなって、どんな本を読むべきかなんて、中学生みたいな質問をする方もどうかと思いますが、先生のまじめなお答えは、やはり妥当だと思います。