ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

メガネの話

先日、久しぶりに美容院に行ったら、担当の若いお兄さんから「メガネかけてる人に昔あこがれていたことがあったんですけど、そう言ったら、すごく怒られたんです」と話しかけられました。「そうねぇ、おしゃれでかけているならいいけれど、見えなくてかけているなら」と応答した途端、ずっと前に知った‘まずい説教’を思い出してしまいました。
説教者である牧師は、私より3歳ほど年上なのですが、こんな話を礼拝中にしたのです。「老眼が少し入ってきたので、メガネをかけて本を読んでいました。すると娘が来て‘お父さん、メガネかけてるとインテリに見えるよ’と言ったので、少しうれしくなってしまいました。私は、本当はインテリに見られたかったのだと思います」
皆さんは、どう思われます?なかなか素直で正直な牧師さんだとお感じですか?
私は、小学校3年生頃から、近視のためメガネを少しずつかけるようになりました。小学生のことですから、同級生の男の子達から「メガネザル、メガネザル」とからかわれるのが、とても嫌でした。また、成長期のために、どんなに気をつけていたつもりでも、身長の伸びと比例して近視の度も上がり、毎年のようにメガネのレンズかフレームを買い換えなければならないのが、親にも申し訳なく、自分でも嫌な思いをしていました。乱視も少し入っているとのことで、中学の頃からは、「特別注文のレンズ」になってしまい、メガネ屋さんに二度行かなければならないのも、面倒に思っていました。

ですから、クラスメートの何人かが経験者だということを実績に、高校2年でようやく、コンタクトレンズを買ってもいい、と母親から許可が出た時には、踊り上がるほどうれしかったものです。一応は思春期ですから、やぼったい厚レンズのメガネよりは、すっきりと素顔でいたかったのです。親の心配は、自分の若かりし頃のコンタクトレンズが、目に入れただけで痛くてたまらなかったので、私に同じ思いをさせたくない、ということだったのですが、もう一つは、せっかくの高価なレンズを、すぐに落としたり壊したり紛失したりするのではないか、という理由もありました。「今は技術が進んでいるから、それほど痛くない」と強調し、「レンズは絶対に大事にする」と宣言して、ようやく許してもらったほどです。
初めてコンタクトで登校した時には、スポーツマンの男子生徒が、ニヤニヤしながら私の顔をいつまでもチラチラ見つめるので、かえって落ち着きませんでした。また、レンズがずれるのではないか、と神経質になったあまり、目を動かすのではなく、首を動かして左右を見回していたので、担任の先生から自宅に「大丈夫ですか」と電話をもらったぐらいでした。
今、こうして振り返ってみると、周りから、随分、大切に育てられたように思えますから、不思議なものです。皆さん、愛情深く接してくださり、どうもありがとうございました!

ところが、コンタクトレンズというものは、やはり何かと不便なのです。私の場合、よく見えるようになったのですが、すぐに充血してしまい、前頭部に軽く痛みを伴うため、いつも目を血走らせて学校生活を送っているように見られていました。メガネ以上に、コンタクトだということがすぐ誰にでもわかるので、「近眼だとお見合いで不利になるから、見えなくても見えるようなふりをしなさい」と祖母にさんざん言われたことも、そもそも全く無意味なことだったのです。
それから、その頃に開発されたレンズは、酸素透過性でも一日12時間以内の使用を勧められていました。学生時代の12時間なんてあっという間ですから、つい無理をして14,5時間ほど装用したり、目の健康にはよくないことばかりでした。
一番困ったのは、ほこりがよく目に入ったことです。「目が大きいからね」と言われるのですが、どうなんでしょう?余程ほこりっぽいところで生活していたのかもしれません。電車通学していた大学の頃のことですが、ある日「目がチクチクして困る」と眼科に駆け込んだところ、「あ、鉄道のそばをよく歩かない?鉄粉が目に刺さってるよ」とお医者さんに言われてゾッとしました。
それでも、結婚するまでは、本当に無理に無理を重ねて、外見ばかり気にしていたんですね。コンタクトの使用は絶対にやめませんでした。その代わり、メガネも必需品でしたから、視力のことでは、子どもの時以来、お金がかかって仕方がなかったのです。目のいい人が心底うらやましく思っていました。
話は長引きましたが、ですから、先の牧師説教は、ついムッとしてしまうというのか、(世間の人の心がまるでわかっていない説教だな)と例の批判癖が出てしまったわけです。
いえ、いいのですよ。メガネをかけていればインテリ風に見えるかなんて、人に対しても自分に対しても思ったことがないのですから。「知的」なら肯定的な響きですが「インテリ」というのは、あまりいい意味で使われないのだという印象を、私は持っていました。時々、年長の方達から「あなたは学者さんなんですね」と言われることがあり、その度に(あ、世間知らずの頭でっかちと思われたんだな)と反省させられます。そのように、「インテリ」というのも、決して褒められた言葉じゃないと思っているのです。
その説教に関するならば、インテリだの何だのという一方的で表面的な話で、導入が終わってしまったのが非常に残念でした。メガネをきっかけに、「見える」とはどういう哲学的意味があるのか、聖書を題材に説教を展開されたら、おもしろかったと思うのですが...。