ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

マレーシアとキリスト教

昨日は、オーストラリアから文献が一冊届きました。スシロ先生が送ってくださったもので、インドネシア聖書協会(Lembaga Alkitab Indonesia)出版のジャーナル“Forum Biblika”の1998年版バックナンバーです。

内容は、聖書翻訳の技術面や聖書関連文献の書評などですが、このような文章は、私にとって、日本語と英語(と機会があればドイツ語)で読むのが通例でしたので、インドネシア語で読めるのが、とても新鮮で興味深いです。マレーシア聖書協会でも、この種の聖書学関係のジャーナルが発行されていればいいのですけれど…。

キリスト教や聖書に関する論考がインドネシア語でできるのだから、マレー語でも当然できるはずだというのは、あくまで理論的な机上の話で、今までのところ、かけ声はともかくとして、聖書以外には、簡単なマレー語によるキリスト教入門書やキリスト教用語彙リストができた程度です。それを考えれば、以前の「ユーリの部屋」でも何度か言及済みの(2007年7月13日、8月22日、8月25日付)、サバ神学院が発行したマレー語による論文集二冊“Matang dan Sempurna”,“Bercambah dan Berbunga”の出版は、実は英語からの翻訳であるとはいえ、少しずつ期待できるかもしれません。しかし、翻訳者自身でさえ「私は英語で教育を受けた世代で、そのことはラッキーだったわ」と、2006年11月中旬頃、私に直接言ったぐらいですから(翻訳者は、英国国教会系カダザン人で、現在はサバ神学院の講師)、非常に考えさせられるものがあります。

結局のところ、マレーシアのキリスト教は、言語的にみて、英語と華語とタミル語が中心のままなのでしょうか。確かに、都市部では、日本以上に大きな教会が目に入りますし、中に入ってみると、3桁の人々が集まっているのがマレーシアの教会です。そこだけ見るならば、「マレーシアはイスラームの国だけれど、諸宗教が平和に共存している」と言いたくなるのも、単純ですが理解不能というわけでもありません。しかし、その程度で留まらずに、もっと注意深く観察してみれば、次のような不可思議な現象に気づきます。
例えば、国語であるマレー語を使っているかどうか尋ねると、教会によって異なりますが、カトリック教会ならば、「時々は用いる」「うちは使わないけれど、記念日や○○教会ならマレー語のミサもある」などという返事が戻ってきます。
また、キリスト教文献が国語で書かれているかどうか聞いてみると、「そういう文献はあるよ」と、面識当初は答えるのですが、何度も繰り返し時間をかけて尋ねると、「実はね…」という複雑な表情になるわけです。その内実や背景には、ムスリム当局側とキリスト教共同体内部の双方の理由があります。(それについては、既に一部論文にしましたし、毎年、恒例行事のように口頭発表を続けているので、ここでは省略いたします。)
結局のところ、英語にしろ華語にしろタミル語にしろ、外部からもたらされた言語であり、土着のことばとは言い難いわけです。つまり、マレーシアのキリスト教文献の多くは、英語圏や香港・台湾・シンガポール南インドからの輸入に頼っているということなのです。

換言すれば、マレーシアのキリスト教は、独立50周年を経た今年に至ってもなお、外来宗教の装いから脱却しきれていないと言えましょう。

そのために、スシロ先生のようなインドネシア人が、自国インドネシアの聖書翻訳だけでも精一杯(何しろ言語数が、マレーシアのボルネオ島以上に、多過ぎる!)なのに、過去に「対決(Konfrontasi)」という政治的対立を経験したマレーシアまで赴いて、あれこれ世話をやかなければ、聖書翻訳一つ進まない、という‘情けない’状況にあるわけです。

近年、マレーシアで各界の指導的立場にあるミッションスクール出身者達が、ミッションスクールの再建を討議しています。もしも、政府系の国民学校が、当局の強弁通りに国民統合をもたらし、教育水準の向上を実現していたならば、こんな復古調の議論などは起こりえなかったでしょう。しかし、英語系ミッションスクールをマレー語に転換した国民学校が、英語力の著しい低下を招き、思考力も硬く狭くし、応用のきかない、単に従順な生徒達を生み出しているだけだとしたら、(昔のミッションスクールはよかったなあ)という感慨を呼び起こす人々が出ても当然だと言えます。

もっとも、当時のキリスト教宣教団側にとっては、学校教育と病院経営を通じて、キリスト教的価値観を紹介し、ひいては改宗者を増やすことが目的でした。しかし、たとえ改宗者が直接生まれなかったとしても、少なくとも、地元の人々が「キリスト教は悪い宗教ではない。むしろ、近代化と進歩的な社会改革に結びつくのだ」という印象を持ってくれたならば、それも一つの小さな成果ではある、と考えていました。

教育学の専門家ではないので、しっかりとしたリサーチをしたわけではありませんが、聞くところによれば、元ミッションスクールの教員達は、概して熱心に指導するよい先生達だったという評判です。時には鞭でしつけするほど厳しかったとしても、その愛情はしっかりと伝わっていたようです。あるメソディスト学校の卒業生だった人は、私に「今でも、元教師のミッショナリー達とは連絡を取り合っているよ」と教えてくれました。「ミッションスクールの外国人教師達は、本当にいい人達だった。よくやってくれた。でも、宣教団の子ども達は、だいたい甘やかされて、いたずらっ子で腕白者だった」とも言っていました。

もう一つ大切な点は、ミッションスクールで教えていた現地人教師に、マレー人も少なからずいたということです。ミッションスクールの生徒にマレー人が含まれていたという話は、首都圏では特に珍しくもありません。なぜならば、現在の政治家や各界の指導者層には、ミッションスクール出身のマレー人が多いからです。しかし、ミッションスクールにマレー人教師がいたということは、案外盲点ではないでしょうか。なお、1990年代前半に、セレンバン在住インド系家庭で、国民中等学校教師のカトリックの奥さんから聞いたのですが、「当時のカトリック系学校で教えていたマレー人教師は、今の国民学校で教えているマレー人教師とかなり質的に違って、本当に一生懸命教えていた」とのことです。これは何を意味するのでしょうか。

これにはさまざまな事情が考えられます。私が思うに、現地人教師は、規律のよさと整った設備で有名だった当時のミッションスクールで、威信のみならず、外資(すなわち海外宣教資金)による比較的よい給与もいただいていたのではないでしょうか。また、そういう学校に採用されたマレー人は、マレー人共同体の中でも、かなり開かれた考えの持ち主で、都市部在住の上層階級ないしは教養層だったのではないかと考えられます。それに、‘純粋な’マレー人というよりは、華人やユーラシアン系と混血した系統のマレー人だったかもしれません。(そういうマレー人を、私は何人か知っています。おっとりとして素朴な所謂カンポン・マレーとは違い、どの人にも共通して、どこか聡い面が確かにうかがえました。)ご参考までに紹介しますと、マレー人エリートの混血状況に関するエッセイは、“Rentakini”というサイト(http://www.malaysiakini.com/rentakini/70629)で読むことができます。

現在の国民学校のマレー人教師が皆、質が悪いというのではありません。中には勤勉で熱心な先生方もいるでしょう。しかし、中等学校の見学をさせてもらった当時の遠い記憶を辿ってみても、青年海外協力隊の知人の話でも、始業時間になってもまだ職員室でだらだらおしゃべりしていたり、終業時間が近づくとさっさと片づけに入ってしまう先生達が目立っていたようです。形の上では確かに学校で教えているのでしょうし、仕事をしていないとは必ずしも言えないのですが、何となく、(勤務態勢がちょっとねぇ)と言いたくなるような雰囲気がありました。

学校だけではありません。マレー系銀行に口座を持っていたことがありますが、カウンターに座っている行員はともかくとして、定期預金の手続きのために奥の部屋に通されると、唯一の華人行員だけがテキパキと書類に目を通したりサインをしたりしていて、他のマレー人行員達は、お菓子をつまみ続けたり、誰彼となくおしゃべりに興じたり、私的電話を楽しんだりしていました。私は、そのたった一人の華人女性のおかげで、安心して手続きができたようなものです。非常にさっさと仕事を進めてくれ、挨拶代わりの世間話も上手でしたが、そのセクションではどこか浮いているような感じもありました。彼女が他の部署に転勤になったと聞いた時には、とても淋しい思いをしたものです。後任のマレー人女性も、割合テキパキした人でしたが、あまり世間話もせず、私が一つ質問するたびに、席を立ち上がって上司に聞きに行くので、時間が倍はかかったように思います。

このような指摘は、民族差別だと思われますか?私は、外部の人間だからこそ、ストレートに言える部分、言わなければならない面もあるのではないかと考えます。特に、昨日いただいたマレーシアからの独立記念日50周年のメール返信には、各人各様に「これからのマレーシアの将来が心配だ。いずれにしても、自分はマレーシア人であって、お祝いの一端を担っていることは事実だけれど」「今の若いマレー人の偏った態度ったらないのよ。病院に知人をお見舞いに行ったら、“あんたとは英語で話さないよ。ここはマレーシアだから”なんて、マレー人の男性看護士が私に言うのよ」などと、口々に不平を添えていましたから…。マレー人にはマレー人の言い分があるのでしょうが。

すっかり長くなってしまいましたので、この辺で話を冒頭に戻すと、インドネシアキリスト教系大学というものを、いつか一度じっくり見学できたらなあと夢見ています。スシロ先生、いつまでブリズベン在住かしら?もし定年退職されてお時間ができたら、先生にジャカルタとボゴールの聖書協会と東ジャワあたりのキリスト教系大学を案内していただけるとうれしいなぁ、なあんて、あり得ないことを一人夢想しています。若い時期ならともかく、所帯持ちでこの歳になると、単独インドネシア旅行は、ちょっとした勢いというのか勇気がいります。マレーシアでは何とか地理感覚もあり、言葉も不自由しないのですが、インドネシアとなると、あのジャカルタの渋滞を見ただけでも、(う!クアラルンプールの方がずっときれいだなあ)となってしまいますから…。食べ物は、ジャワ島の方がマレー半島よりも洗練されていて、おいしいと感じましたが、料理の選択幅はマレー半島の方がずっと広いので、何とも言えません。

あ、ミッションスクールの再建構想ですが、もはや改宗者獲得目的ではない、ということだけは識者の間でも一致しているようです。それよりも、緊急の課題は、マレー当局がそれを許すかどうか、資金はどこから得るのか、どこで教員を訓練し、水準や質をどのように保つのかなど、と難題山積みなのです。いやぁ、それを思えば、昔のミッショナリー達は、欠点も間違いもあった一方で、確かに偉かった!!