ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教会を選ぶ時

昨日書いた内容の末尾に関連して、前々から気になっていることを少し書かせていただこうと思います。

主人の母方の家が代々お世話になってきたのは、真言宗御室派の寺院です。都会に比べればかなり広い敷地のお寺で、なかなか風格があります。ご住職は主人より数歳年上ぐらいですが、子どもの頃、夏休みには田舎で過ごすことになっていた主人の記憶では、ご住職も小学生のうちから、檀家回りをしていたそうです。お寺の家に生まれた以上、後継ぎとして進路が既に決まっているというのは、よいことなのかどうかわかりませんけれども、少なくとも本人の自覚より先にお勤めに出さなければ、大人になってから苦労するという意味もあるのでしょう。地元の高校を出たら京都の仏教系大学に進学し、数年間、専門の勉強と本格的な修行をしながらさまざまな経験を積み、それから出身地に戻ってお寺を継ぐようです。

ご住職には、数年前の祖母の葬儀で初めてお目にかかりましたが、なかなか声と体格の良い方で、80代ぐらいのご年配の方達の間でも堂々と落ち着いて振る舞われています。会話なども過不足なく的確に応対される点は、さすがだなあと思いました。

新渡戸シンポの時、聖イグナチオ教会のミサに出席しましたが、神父さまが「今年は暑いので、お葬式が毎日のようにあります」とおっしゃっていました。全く同じことを、今回の葬儀でもご住職からうかがいました。一日に一軒ならばまだよいのでしょうが、午前中に一度あり、午後も回らなければならないとなると、この暑さではさぞかし大変だろうと思います。

仏教であろうとキリスト教であろうと人の生死と魂に直接関わる重要な仕事であるという点では、相違がありません。しかし、特に人情厚く人間関係の濃厚な集落では、人の目もそれなりに厳しいため、ご住職も単なる「葬式仏教」と揶揄されるような形ではあり得ないだろうと思います。この地域では、新聞に書いていないことでも、集落の皆がそれとなく知っているという側面があります。第一、JR駅を下車してタクシーに乗った時、通りの名や地名ではなく、世帯主の名前を言うだけで間違いなく家に辿り着いたのには、最初の頃、本当にびっくりしました。タクシーの運転手さんが、初対面の客に向かって「ところで、○○おじさん元気にしちょる?」などと聞いてくる所なんですから...。多分、私達夫婦が乗り降りしたことも、その辺りをぶらぶら歩いていたことも、さりげなく話題になっていたでしょう。

また、今回のように、都市居住の若い人だけれども、葬儀はご両親の出身地でしたいというような場合にも、さっと協力体制ができるというのは私にとって新鮮でした。

さて、キリスト教会の話題に移ります。最近の日本では、牧師や司祭志願者が激減して大変高齢化していると聞きます。そのために経済力が落ち、無牧という教会も珍しくなくなってきました。本来はこうであってはいけないはずで、遅くとも十年前には手を打つべき問題であったのではないかと思われます。自由主義神学のせいだとか、この「ユーリの部屋」でも開設当初に書きましたが(2007年6月24日付)、実のところ、それほど難しい話でもないだろうと私は思うのです。

関西の地に来て、教会探しには苦労しましたし、今も苦労しています。一つには牧師との相性があります。以前にも書いたことですが、「どんな牧師であっても、神様が送られたのだから、私達は受け入れなければならない」と教会内では言われます。ですが、聖書知識もさることながら、魂と生死にかかわる問題に対してどこまで真剣かというのは、牧師の条件として最優先されるべきだろうと私は思います。

「魂の救いはイエスをキリストと信ずる信仰によって得られるもの」との教えに対して、あまりにも一面的に受け取っている教会もあるようです。確かに教義上はそうであっても、一定の社会常識から外れる振る舞いはいかがなものかと思います。例えば、昨日も書いたクリスチャンの一親族のことですが、その人は手持ち無沙汰からなのか、時々、場にそぐわない話題を持ち出してしゃべり始めるのです。黙って座っているならまだしも、自分がキリスト教を信じて「救われている」からといって、仏教式の葬儀の際、ご遺族や親族が故人の早過ぎる逝去を悲しんでいる場で明るく振る舞われたら、どう見ても違和感があります。そういう「常識」について、どのキリスト教会であっても一応の指導をすべきではないでしょうか。

数年前、40代前半の牧師に会ったことがあります。その牧師は三人兄弟の末っ子で、お母様を既に亡くされていますが、療養中は大変だったそうです。そういう経験をお持ちならば、生死や難病を抱えて生きる問題についても、何らかの見識をお持ちではないかと、てっきり私は思い込んでいました。ところが、「この歳になりましたし、主人の病気もありますから、お墓をどうするかなど考えるところがあります」と言ったところ、あまりにもあっけらかんと「まだ大丈夫でしょう」と言われてしまい、唖然としました。今回の葬儀だって、私より若い30代半ばの方だったんですよ。誰もが(え、まさか!)とびっくりしていたのですが、人生とはそういう側面を持つものでもあります。まっすぐ歩道を歩いて交通事故に遭わないとも限らない時代に生きていて、どうして「まだ大丈夫」と言えるのか、その牧師の意識の持ち方に少し疑問を抱いてしまいました。

後で調べてみて知ったことなのですが、その教会では、前任者の時代に、教会キャンプで川遊びをしていた時、教会員の一人が水死されたそうです。もちろん、水死そのものは牧師の責任ではないとはいえ、事故の元となったキャンプを主催したのは教会ですから、その前任者は、辞任するかどうかまで真剣に悩まれたそうです。結局のところ、今も東京の教会で牧師を続けていらっしゃいますが、宗教組織は、特にこういう問題には敏感にならざるを得ないのではないでしょうか。

その40代前半の牧師の話に戻ると、会話中、「牧師の仕事は、三代続けないと本当には勤まらない」と私におっしゃいました。その方は一代目で、娘さんしかいませんから、その代で終わるという意味だったのでしょうか。それとも、自分はいつも大変な思いをして教会政治に携わっているのを察してほしいということだったのでしょうか。ただ、そこまで考えが至らなかった私が「そうですね、仏教でも、お寺の息子さんは小学校のうちから修行するって言いますもんね」と相づちのつもりで返事をしたところ、チッと舌を鳴らして非常に不愉快そうな表情をされてしまいました。しかし、そのやり取りから、私はその教会への所属を見合わせる決心をしたのでした。

一代目が何かと難しいことは、恐らくどの仕事でも同じでしょう。人相手の仕事で、かつ専門性が高ければ、その分野での人脈や立居振る舞いなど、先代から受け継いだ経験知や情報がどれほど支えになるかわかりません。また、子どもの頃から時間をかけて、少しずつ慣れていく経験も必要だろうと思われます。その点、商家であれ学者であれ、その筋の家系というのは、若手でも態度に余裕があるので、すぐにわかります。反面、新鮮味に欠けるなどということもあるいは見受けられるのかもしれませんが、少なくとも安定感があることは確かだろうと思います。

神学部の牧師養成コースでは、神学的知識のみならず、こういう人的対応の面もぜひ訓練していただければと思います。なぜなら、専門家よりも一般人の方が、日常生活の中で、浅くともそれなりにさまざまな経験をしていることが多いからです。