ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ルーツを辿る

主人のいとこの件と猛暑のためか、まだ、どこか頭がぼんやりしています。

結局、二日間家を空けたので、6月頃から育て始めた植木鉢の二種類の花々が、変色し元気がなくなってしまっていました。出かける前にたっぷり水を注いだのですが、それでも足りなかったようです。早速、北側のベランダに移動させ、元気回復を試みることにしました。

私の実家は、父方母方共に、祖父母の代から名古屋市内に居住していたため、冠婚葬祭や親戚づきあいなどでも、急な電話の後に、美容院に行って着付けと髪のセットをしても、充分間に合う距離でした。お盆や暮れの帰省ラッシュも、テレビの画面で知るだけの話だったのです。確かに、時間的にも金銭面でも便利なことは確かですが、一面、狭い時空で暮らしていたということになります。

また、価値観が近似しているため、親戚の間で妙な競争意識が働くことも、幼い頃から感じていました。どちらの家がより大きくて新しいかとか、学校は誰それがどこに行ったかとか、趣味は何だとか、どこそこへ旅行に行ったかどうかなど、特に私は女の初孫だったので、何かと注目の的であり、プレッシャーになっていたように思います。

最近は、プライバシー保護や個人情報の開示権利など、大変やかましくなってきています。妙な事件が発生したからなのですが、いわゆる「人権運動」の結果でもありましょう。その一方で、若い人達を見ていて、当然知っておくべきことまでも、「プライバシー」や「個人情報」の名の下に、隠したり知らないままでいたりすることが時々あり、びっくりさせられます。世間話とは、単なる暇つぶしではなく、互いの身分や振る舞い方を判断する材料でもあるのですが、それができなくなっているようです。電車に乗っていても、今は皆携帯の小さな画面をじぃっと見つめたり、せわしなく指を動かしたりする無言の状態が、当たり前になってしまいました。私達は、携帯を持っていないので、周囲を見渡すと、何だか人がロボットのようで不気味に感じることがあります。

田舎と都市部とでは、後者の方が断然進歩的でよいイメージを持たれる方があるかもしれません。しかし私は、主人と結婚してみて、必ずしもそうではないことに遅ればせながら気づきました。今回も思いましたが、山間部の町並みの方が、概して景観が美しく、道にゴミなどが散乱していることはまずありません。また、住んでいる人同士が互いによく知り合っているために、かえって落ち着いていて安全だとも言えます。何よりも、往復切符を握りしめ、お土産と少しの着替えだけをリュックに入れて、6歳頃から主人が一人で夏休みの度に過ごしてきた場所です。小さい頃、主人が遊んでもらった本家のおじさんやおばさん達とも顔合わせできると、こういう環境で育てられてきたんだなと、隠し立てなくルーツのはっきりしていることに安心感を覚えます。

もちろん、私の家も何ら隠すようなことはありませんし、主人には何でも話しています。ただ、都市部の場合、つき合いがなかったり会ったこともない親戚がいても特に不自由がないために、かえってわからなくなっている面もなくはなく、長い結婚生活の間に問題が浮上することもあるのではないかとも思います。

今これを書いていて、変なことを突然思い出してしまいました。それは、私が結婚した直後に、母校の大学院の関係者から言われたことです。「なんだか、聞いたこともない苗字だけれど、関西って外国人が多いから、ユーリさんの結婚相手って、日本人を装っている外国人かもしれないよ」と。その人は、現在、ある大学の准教授をしているのですが、それを聞いた時には(私ってそんな風に思われていたの?)と強いショックを受けました。もっとも、「聞いたこともない苗字」というのは、もし本当だとしたら、ずいぶん世間の狭い話ですが...。まともに相手にすべき話でもありませんけれども、そういう根拠もないことを実しやかに言う人が周囲に存在したということの方にびっくりしました。ただし、双方の両親や兄弟や親戚が同席の上できちんと結婚式を挙げ、知人を招いて披露宴をするということの実質的意味が、これで理解できたことも確かです。私達は、一通りすべて行いましたが、それでもこんなことを言われたのですから..。

もう一つは、「マレーシアに三年間も住んでいたんだから、まともな結婚なんか望めるはずがない。身の程知らずだよ。ちゃんとした職を持つ日本人の勤め人と結婚したかったら、そもそもマレーシアに来たらダメだったんだよ」と言われたことです。実は父もそう言って、私のマレーシア行きを猛反対しましたが、今振り返ってみて、親心としてはわからなくもありません。ただ、周囲の友人から大まじめにそう言われた時には、もうこれで人生は終わりなのか、人生選択を誤ったのかと意気消沈したことも事実でした。主人に言わせると、「女性同士って内輪ではすごいこと言っているんだな」とのことですが...。

ずっと前のことですが、研究論文の本を出版したある年上の女性研究者から「私がいくらこういう本を出したって、どうせ、東南アジアで女が一人何してきたって思われているだけですよ」と自嘲気味に聞かされたことを覚えています。私は、そのような考え方そのものに同意できないのですが、概してそういう風潮があるのでしょうか。例えば、ニューヨークやロンドンだって、世界の最先端という側面がある一方で、いろんな人がうじゃうじゃ住んでいて、それほど美しい街とも言えなくなっているように感じるのですが、そのことと素朴で簡素な東南アジアの農村と、どちらの方が「まとも」だなんて、一概に言えないのではないでしょうか。

ルーツやアイデンティティがはっきりしていることは、一種の安定感を与えます。昨今、「そういう見方は差別だ」という問題のすり替え議論が前面に出ていますけれど、私の言いたいのは、それ以前の話です。ずいぶん前に、学生時代のクラスメートに「私が結婚したことを誰にも言わないで」と電話で箝口令を出されたことがありますし、マンション住まいで表札も出さないように用心しているケースがあると聞いたこともあります。約束は守りましたが、正直なところ、何となく落ち着きませんでした。

多民族多宗教多言語社会のマレーシアでも、真っ当に暮らしている人々は皆、自分のルーツをよく知っていますし、アイデンティティも明確です。かえって、文化混淆状態にある人の方が、リサーチ上の経験から言えば、知識や人脈も曖昧で、信頼性に欠けることの方が多かったです。