ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

正典と外典に関する私的雑感

聖書学に関して、文献学的研究においては、我が国も相当な世界水準に達している、ある場合には世界水準を超えた分野もある、と聞いたことがあります。確かに、いつだったか『新約学研究』のバックナンバーを図書室で見ていたら、「それに関しては、欧米の研究水準より日本の方が高かった」「ドイツ語圏の某研究者は、英語が使えなかった」「英語圏のある研究者の発表は、聞くに堪えない水準であった」などとコメントが書かれていて、これも一種のナショナリズムなのかとも思いました。いずれにせよ、気を緩めることなく、常に刻苦勉励すべし。聖書学においても、いつまでも欧米諸国が先進国顔(づら)をしてはいられない、ということなのでしょうか。

「正典・外典・偽典」については、受洗前、牧師との学びの最中に質問したところ、「正典以外のキリスト教文書は、やっぱり神様のにおいがしないんですよね」の一言で説明が終わってしまいました。20年以上も前のことです。1970年代に教文館から出された立派な装丁の『聖書外典偽典』を市立図書館で見たので、とても気になっていたのですが、牧師の一言って大きいですね。別の事情で、一年ぐらいして他の教会に移りましたけれど、今でも覚えているんですから…。

しかし、「神様のにおいがしない」だけでは、学究的態度とはいえず、研究になりません。当時、その教会では、信徒集めのためか、教義に外れるような‘余計な’情報は与えないで、忙しく教会行事や奉仕作業を行い、仲間の凝集力を高めようとする傾向がなきにしもあらずでしたが、その結果はいかほどに?

よく「学問より信仰の方が大切です」という牧師がいますが、私はそうは思いません。「勉強して偉くなろうとする人より、素朴に信じている人の方を、神は喜ばれます」などという説教も、昔どこかで聞いた記憶がありますが、これってどこか偏っていません?別に、偉くなろうとして勉強しているとは限らないじゃないですか?知的好奇心が旺盛だとか、根っからの勉強好きだとか、さまざまな要素があるはずですが…。聞く側は真剣に聞いていて、後まで覚えているのです…。

確かに、新約文書においては、(律法)学者は否定的意味合いで描かれているものの、その場合、書き手は一体誰だったのか、そしてどのような社会的文脈で書かれたのかを知ることが、最も重要ではないでしょうか。そこから、現在の私達に向けての神学的問いかけ及び意図を汲み取ることが、必要な作業なのだろうと思います。そのためにも、初代教会の時代に流布されたキリスト教文書の研究は、非常に大切になってくるのです。

と、専門でもないのに、どうしてこんなことを書いているかというと、個人的に、かなりのフラストレーションがたまっているからです。もっと勉強したい、知りたい、学びたい、のにもかかわらず、大学では批判的思考を訓練される一方で、教会では信従を教わるのです。そのバランスをどのようにとればよいのかは、各自に委ねられるのですが…。

話は逸れますが、十年以上も前に、ある老齢のカトリック司祭からこんな話を聞きました。「日本の教会では、多分プロテスタントも同じだろうと思うけれど、教会活動に熱心な若者の場合、女性ならば一般社会でもやっていけるが、若い男で教会に入り浸っている人は、こりゃダメだね。教会外の社会で、うだつの上がらない内向きの人間であることが多い。専門能力がないから、教会に依存してしまうのだ。これでは、キリスト教の証としても失敗だ」と。

話を元に戻します。趣味の勉強の範囲内ですが、外典に関して自宅に所有している書籍は、次の二冊だけです。

・荒井献『トマスによる福音書講談社学術文庫1149(1994/1996年)
・荒井献(編)『新約聖書外典講談社文芸文庫 アC1(1997/1999年)

その他に、同志社大学神学部図書室より一部複写した文書は、次のとおりです。
・荒井献・大貫隆小林稔・筒井賢治(訳)『ナグ・ハマディ文書Ⅱ:福音書岩波書店(1998年)

専門の研究ではないので気楽な感想ですけれども、大変おもしろい文書でした。ところどころ、読みにくかったり、意味不明だったりする箇所もないわけではないのですが、昔、国文学科で寺社縁起本の穴あき虫食い写本を、自分達で分担しながら何本か転写して読み比べるという演習を思い出しました。あのような訓練は、直接その分野の研究者になるわけではなくとも、後々、何かと役立つものですね。同じ事をするのでも、周辺や背景を知っているのと知らないのとでは、大違いですから。