ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

K家の冊子から....

昨日、ご紹介したK家の冊子に、特に興味を引かれる話が掲載されていました。実は、昨年のクリスマス当日に送られてきた前号の続編にあたる内容で、その時からいろいろ考えさせられていました。ご本人の許可を得ましたので、当分の間、この日記ブログで、自分なりの体験も織り交ぜつつ、思うところを少し綴ってみたいと思います。

それは、娘さんのS子さんが書かれた「親しくなることについて」(Sich vertraut machen)という題目の文章です。私は日本語版を先に読むので、目次を見た時(あれ?‘befreunden’じゃないのかな?)と一瞬思いましたが、S子さんが意図されているのは、もう少し深いもので、コーネル大学との共同研究のため滞在した5週間、研究以外の目標の一つとしてイサカ(前号では「イタカ」と表記)の教会礼拝に行った時の、経験談と考察です。一部脱線として、マレーシアのサラワク州にある教会の感想も含まれていました。

私は主にマレー半島、特に首都圏の教会を中心に見ていて、残念ながらサワラクにはまだ行ったことがないのですけれど、S子さんの感性に(さすがはセンスがいいな)と教えられるものがありました。また、アメリカの教会については、2005年8月に、かつて主人が留学していたボストン周辺でちょっとした教会巡りをしたことがあり、何となく雰囲気は想像できなくもありません。その話はまた後日に....。

では、本文に入りましょう。今日は、一点に絞りたいと思います。話の筋からは必ずしも中心部分ではないのですが、ある大事な一文に目が留まりました。

「ドイツや日本に比べ、他の国で行った教会はどこも多くの人がいた気がします。」
‘Im Vergleich zu Deutschland oder Japan waren die Kirchen in den anderen Ländern, die ich besucht habe, meist gut besucht.’

ここでの「他の国」とは、前号の記述から多分、ロシア、フィリピン、ギリシャなどを指していらっしゃるのだろうと思いますが、それはともかく、ドイツと日本の教会の「少子高齢化」問題は、私にとっても、大変深刻です。1999年8月にベルリンを訪問した時には、教会まで回れなかったので実体は不明ですけれども、D大学神学部の先生が「ドイツの教会堂は立派だが、中はガラガラ。来ている人もおばあさんが中心」とおっしゃっていました。また、日文研国際日本文化研究センター)の公開講演でも、山折哲雄前所長が「ドイツのキリスト教は、力が大変衰えている」と述べていらしたのを記憶しています。

日本のプロテスタント神学や聖書学は、ドイツ系が長く主流とされていたので、日本の教会不振は、ドイツの歴史的批判の聖書学や自由主義神学の影響を受けたためだと、かつて聖書学の教授から聞いたことがあります。「今の聖書学では‘イエスはキリストではない’なんて常識ですよ」「最近では、ブルトマンの非神話化が再神話化へと移ってきています」ともおっしゃいました。「え!じゃあ、どうして教会では‘イエス・キリストの御名によって祈ります’と言っているのですか」と驚いて尋ねると、「だから、教会と聖書学は違うんだ」と半ばイライラしたように答えられ、口をつぐんでしまわれました。

大半の一般信徒は「学問と信仰は違う」「聖書学者は自分の業績のために論争しているのだから、関係ない」「考えても仕方のないことは考えない」と割り切って、教会生活を送られるかもしれません。事実、そういう声を何度かこれまでにも聞いてきました。しかし、です。私は、そのような賢い切り離しができなかったのです。かなりの間、一人で逡巡を続けてきました。「学問とは違う」なら、行き着くところ、一種の盲信になりはしないか?「業績のための論争」だとしたら、それは当人にとっても結局のところ、空しい作業ではないか?(参照:「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい日本聖書協会新共同訳』1998年「コヘレトの言葉1章2節)「仕方のないこと」と思考停止するのではなく、何らかの背景あっての聖書学や神学の一傾向ではないか、と考えられないのか?理想的には、信仰に基づいた上での真摯な営みとしての聖書学や神学であってほしいのだけれど…。願わくば、対立項としての「学者」「牧師」「信徒」という関係ではなく、緩やかであっても何とか統合する方向へ導かれんことを…。

ここでちょっと脱線。ナイーブだと思われるかもしれませんが、私が最も驚愕し落胆したのは、『岩波キリスト教辞典』(2002年)を日課の勉強として5項目ずつ読んでいた数年前のことです。「スイスのキリスト教」の項目(p.614-615)には、「日本でなお読者を保つヒルティの『眠られぬ夜のために』『幸福論』は今日、本国では忘れられている.」(川中子義勝)とあります。実は、学生時代からかれこれ20年ほど、ヒルティを繰り返し通読するのが習慣でしたので、本当にショックを受けました。悪貨は良貨を駆逐する、なんでしょうか??

長くなってしまったので、今日はこの辺にします。S子さんの文章については、中心テーマも含めて、引き続き、私なりに思い巡らす予定です。