メーリングリストからの転載引用を以下に。
『致知』2018年12月号
特集「古典力入門」p. 42
夏井 いつき(俳人)
私たち俳句を詠む人間にとって吟行(ぎんこう)は日常の一部です。
仲間と一緒のピクニックなどはもちろんですが、例えばタクシーに乗っている時もご飯をつくっている時も、その心持ちさえあればすべてが吟行です。目や耳など五感から入ってくる情報でアンテナに触れるものがあれば、すぐに掬い取って句帳にメモし、その五感を頭の中で変換し文字に変えていきます。
自分の脳味噌から出てくる言葉は自分以下のものでしかない、スミレや石、風、空のほうが私の灰色の脳細胞よりも、よっぽど新鮮な情報を持っていることを教えられたのです。
五感を働かせることで、そんな体験をすることも少なくありません。
俳人の世界ではよく「生憎という言葉はない」と言われます。
「きょうは生憎の雨で桜を見ることができない」。
これは一般人の感覚ですが、俳人たちは「これで雨の桜の句を詠める」と考えます。雲に隠れて仲秋の名月が見えない時には「無月を楽しむ」、雨が降ったら「雨月を楽しむ」と捉えます。
これは日本人ならではの精神であり、俳人の心根にあるものなのかもしれません。
その精神で俳句を続けていくと、個人的な不幸や病気、悲しみ、憎しみなどマイナスの要素のものが、すべて句材と思えるようになるのです。
私たちの仲間でも、病気や家庭の事情などを抱えながら頑張って生きている人がたくさんいます。
引きこもっていた人が俳句に出合って外に出歩けるようになったとか、視覚に障害を得て落ち込んでいた人が元気になったとか、大切な家族を亡くされた人が俳句仲間に支えられて立ち直ることができたとか、そういう例は枚挙に遑がありません。
それまで何をやってもマイナス思考で、螺旋階段をグルグル回りながら果てしなく下りていくように生きていた人が、物の見方が全く変わっていきいきとした人生を生きるようになる。
これこそが俳句の力ではないでしょうか。
(引用終)
俳句のお勧めをいただいたのは、2007年3月のイスラエル旅行の時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=2007%C7%AF3%B7%EE%A4%CE%A5%A4%A5%B9%A5%E9%A5%A8%A5%EB%CE%B9%B9%D4)、同志社神学部卒業の当時80代の牧師からだった。「論理的な文章表現は得意そうだが、感覚を磨く言語表現を心掛ければ、さらによくなる」との助言をいただいた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070729)。
残念ながら、俳句を季語なし標語とうっかり間違えて投稿してしまったほどなので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180703)、なかなかできそうにない。
今年9月末頃から居住するようになった今の地では、昔から俳諧が盛んで、町の至る所に句碑が立てられている。博物館でもくずし文字を読む講習会まで開かれており、さすがは教育熱心な都市だけある、と感動した。
それに刺激されて、石に彫り込まれたくずし文字を、足を止めて試し読みするのが、ここ一ヶ月半の新たな習慣となった。
とはいえ、結婚後20年以上住んでいた町も、やはり山崎宗鑑や芭蕉と縁の深い地で、転居当時、そのようなことも学べるのかと期待していた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180802)。残念ながら、福祉や生活の利便性が前面に出ており、私自身も機会を逃してしまった。
学ぶに遅くはない、何とか刺激を受けて、これからやってみよう。
学生時代に使っていた影印本シリーズの伊地知鉄男(編)『増補改訂 仮名変体集』新典社(昭和41年初版/昭和60年改訂11版)が、引越し荷物の中から出てきた。今や、いつも使う部屋の本棚に並んでいる。時折、これを眺めながら、また復習がてら学んでみたい。