ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

幻と現の長岡京

せっかくの三連休だったが、遠出をしなかったのは賢明だったかもしれない。日中の気温が38度や39度等と聞くと、人体にとっても高熱状態なので、外出は控えるべきだ。
地球が発熱している。
従って、昨日は近場の長岡京へバスと電車で出掛けた。昼食後はバスに乗って中山修一記念館で丁重な解説を伺い、またバスに乗って神足神社の近くへ足を伸ばし、駅の近くでお茶と買い物で体熱を冷ましてから、再び電車とバスで帰宅した。
十年前ならば、日課を終えるまでは寝ないと決めていたので、万年睡眠不足だったが、この歳になると無理は禁物。幸いなことに、水分を充分摂り、夜寝やお昼寝の生活を保てる状態ではある。
お陰様で、この二十年間、夏風邪を引いたことはない。胃腸を壊したこともない。
長岡京は主人の勤務地で、かれこれ三十年ほどになる。ここからアメリカ留学へ出していただき、その後のアメリカ東部での駐在員経験もさせていただいた。
この二十年来、私の方は、お正月明けの主人の勤務先での家族健康診断(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120111)や週一のプールやお買い物で、長岡京へ立ち寄る程度だった。そもそも、794年の平安京(鳴くよ鶯 平安京)への遷都前に十年間存続した桓武天皇の「幻の宮」たる長岡京は、名古屋育ちの者にとっては、絶対に仲間に入れてもらえない地空間だと感じてきた。とはいえ、人々はおっとりと穏やかで、静かな誇りを内に秘めて暮らしているようである。
というわけで、土曜日の向日市文化資料館に続き(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180715)、月曜日の「海の日」祝日には、「長岡京の発見者」として著名な中山修一氏ゆかりの記念館を、主人と共に訪れてみた。
この発見を簡単に説明した碑は、千春会病院の前に建っている。かなり前、何かの用事ついでに偶然目にして感動し、写真を撮ったこともある。また、この病院は、昨年のクリスマスの頃、肺炎で主人が緊急入院した場所でもあり、非常に思い出深い。
何よりも、戦後直後の昭和21年辺りに、田んぼの幅の違いに気づいたことがきっかけで、学校教師をしながら、生涯を長岡京の解明に捧げられたという人生は、強く印象付けられた。写真を撮った時には(京都は戦災を免れたから、できたことだろう)とも思っていたが、今回、解説を担当してくださった元同志社高校の先生の説明によれば、広島と長崎の次に、実は京都が原爆投下の対象とされていたらしい。「京都は古都で貴重な文化財産があるから避けた」というのは、後からの言い訳であって、「アメリカ人なんて、日本のことは何も知らないから、どんどん原爆を落とせ」という調子だったという。
ついでながら、空襲については長岡京でもあったそうで、被害にあった煙突の写真も駅で見かけたが、何ともやりきれないことである。
もしそれが事実であるとすれば、高松宮殿下の御進言がいかに貴重だったかを改めて痛感する上、昭和天皇の御聖断もギリギリのところだったと言えよう。
リベラル左派を叩いているアメリカの保守派は、一体全体、この無知がなせる災いについて、どのように責任を取るつもりなのだろうか。名古屋大空襲のひどさについては、母方の祖母から度々聞かされたが、主人の家だって、大阪大空襲がなければ、今では遥かに羽振りのよい暮らしだったはずなのである。
このように戦後七十年以上も経ち、三世代が過ぎてから、本当の喪失感が実感できるようになるのだが、それでは時既に遅し、である。
さて、記念館では、午後2時15分から3時40分まで、主人と私の二人のために、熱演といった調子で質問にお答えくださり、一つ一つの資料に説明を加えてくださった。
このような古代の幻の京発見という話は、私の世代のような均一化された教育を受けた者には、殆ど望めないロマンではある。第一、地元の地主の家でいらした中山先生であり、大原野宮司の娘をお嫁さんにもらった家柄の方である。学校教師をしながら、通勤時にふと「腰が痛い」という農民の発言を気に留めたことがきっかけで、それまで『続日本紀』に一文のみ記され、存在が疑われていた長岡京の跡を、シュリーマンよろしく信念を貫いて発見されたというのである。戦時中には、早良親王のことで、不敬罪扱いされたこともあったらしい。
向日市文化資料館では、「戦後直後の大変な時期に、よく気づかれましたねぇ」と言った私に「いや、あれは昭和29年の話ですよ」と説明があったが、やはり碑に記されていた如く、昭和20年から21年の頃、元々住んでいた地を起点に「長岡京を発見」というのが正式とされているようである。
中山先生は私が結婚した年に81歳で亡くなったが、お弟子さんは今もご健在だそうである。
お話の中で興味深かったことは、三点ある。
(1) 桓武天皇の母に当たる高野新笠百済系王族の末裔だとはいえ、「神足(こうたり)」の地名の由来は、朝鮮半島とは全く関係がない。以前、今上陛下がお言葉の中で桓武天皇に言及され、朝鮮半島との縁について想起されていたが、地元の人々にとって確信はないとのことである。(余談ではあるが、三笠宮崇仁殿下についても、学者でいらっしゃるため、事実に即して正確に物をおっしゃる点、周囲はヒヤヒヤものであったらしい。)
(2) 吉川英治賞をいただいたことが、中山先生にとって最も嬉しかったことだそうである。
(3) 一昨日に向日市文化資料館で伺った話を元に、長岡京を巡る長岡京市向日市の関係を問うたところ、実際に大極殿が置かれたのは向日市であるため、門前町向日市こそ本家という意識のようで、プライドが高いそうである。地名として長岡京を名乗っている方が、人々は大らからしい。向日町と大山崎町に挟まれて、長岡は「村」だったので、そのような意識の違いが生まれたとの由。ちなみに、長岡京市は寧波市と提携を結んでいるらしき碑もある。
歴史地理学のような研究については、地元の人はしがらみがあって難しい点がありそうだが、研究者は大抵よその土地から来た人が多く、しがらみがないので、長岡京市向日市の間で共同研究が盛んだそうである。この点、我が町と隣町の関係ともどこか似ていると言えるかもしれない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)。

簡単に言えば、京の都に地理的に近ければ近いほど、先祖代々、誇り高く暮らしている、ということである。但し、新来のよそ者が新築マンションに住んでいる場合は、恐らく別扱いであろう。
最近とみに増えたアジア系の観光客には、このような違いは多分、気づかないで終わっているに違いない。
記念館は、御遺族から中山家のお宅を市が買い取って、市税で運営し、無料で一般に公開している。本棚には故上田正昭氏の本も一冊並べてあったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180102)、早速、「長岡京と上田先生の関係は?」と尋ねてみたところ、「あの先生は亀岡の神主の出身。長岡の講演にも来ていただいたが、スケールが大きいので、特に長岡京だけとは言えない」と言葉を濁された。この辺り、(1)ともどこかで関連があるかもしれない。
パンフレットを幾つかいただき、記念のスタンプも押したが、スタンプ集めの一見さんではなく、たまには私のような訪問も許されるかもしれない。
これまでの限られた経験によれば、「名古屋出身ですので」と最初に断っておくと、京都文化圏の方達は、距離を置きながらも親切に、初歩的な質問にも基礎から教えてくださるのでありがたい。
主人とて、このような話は田舎のおじいちゃんが好きだったので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091210)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100108)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151111)、自分でも嫌いではないが、三十年以上も勤務していた長岡京であっても、説明を聞かない限り、やはり知らないことが多かったようである。
帰りには、神足神社へ寄ろうとしたが、あまりの暑さに汗が吹き出し、とても歩いてはいられなかったので、スーパーで買い物がてら涼み、電車に乗って帰って来た。
この暑さは、いくら何でも異常である。