ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/)
「一粒の麦もし死なずば」
『一粒の麦もし死なずば』(Si le grain ne meurt)は、フランスの小説家アンドレ・ジッドの作品。表題は『ヨハネ伝』の第12章24節のキリストの言葉、「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」に由来する。4年間かけて書かれた自己暴露の書。ジッドはこの作品を云わば、贖罪のために書いたようなものだと語る。
(部分抜粋引用終)
「アルジェへの旅で、オスカー・ワイルドと行動を共にし」と、アマゾン・ジャパンの読者コメント欄にあったが、この同性愛告白は、ダグラス・マレイ氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%C0%A5%B0%A5%E9%A5%B9%A1%A6%A5%DE%A5%EC%A5%A4)の初期作品(“Bosie: Biography of Lord Alfred Douglas”, 2001)とも通ずるものである。
ジイドには、新約聖書の文言から取った『狭き門』という作品もあり、従って、日本でもそちらの解釈の方が学校でも紹介される傾向にあったと記憶する。昔の翻訳者は質が高く、吟味され尽くした良訳で、今も文学的に人気が高いのだろう。残念ながら、私は未読である。
堀口大學の訳書もダグラス・マレイ氏の当該作品も全く読んでいないが、文学的な鑑賞とは全く別の次元で、私にとってアンドレ・ジッド(「アンドレ・ジイド」の方が馴染み深い)と言えば、ヘミングウェイやゴーリキー等と並び、ソヴィエト共産主義あるいはスターリンのプロパガンダ・エージェントの協力者(として利用されたが後に偏向したらしい)という、もう一つの顔が思い浮かぶ。
以下の本を読んだ後(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150515)、西洋社会のイデオロギー的側面に無知であってはならないと痛感した次第である。
Stephen Koch, “Double Lives: Stalin, Willi Münzenberg and the Seduction of the Intellectuals”, Enigma Books, 1994/1995/2004.
36ページほど、ジイドの名を含む記述が含まれているが、冷戦期に学生時代を過ごした者にとっては、背筋が凍りそうな寒々とした情景である。私の読み方は、ジイドの名に色ペンで下線を引き、その前後を追っていくことで焦点を浮き彫りにし、ポイントを余白に日本語で書き込むやり方である。
この中で、ロシアを含む欧州大陸を「講演旅行」する箇所が、最も私の興味を引いた。現在、イスラーム主義やムスリム移民に対する啓蒙運動を展開するために、旧ソヴィエト・エージェントの構造や形式を借りて、講演会や宣伝のための旅行(speaking tour)を行っている人々がいるからである。この仕組を理解するには、まず上記本から、著名な「文化人」である作家を利用した共産主義運動の全体像を具体的に知っておくのがよい。
著者のスティーブン・コッホ氏については、以下の「電子版フリー百科事典」の抜粋を。
(https://www.encyclopedia.com/arts/educational-magazines/koch-stephen-1941)
KOCH, Stephen 1941-
PERSONAL: Surname is pronounced "coke"; born May 8, 1941, in St. Paul, MN; son of Robert Fulton (a lawyer) and Edith (Bayard) Koch.
Education: Attended University of Minnesota, 1959-60; City College of the City University of New York, A.B., 1962; Columbia University, M.A., 1965.
Religion: Episcopalian.
Hobbies and other interests: Films and filmmaking.Koch later turned his attention to the Russian Revolution and the ensuing ideological battle between the United States and the Soviet Union, which to led the cold war of the 1950s and beyond. In Double Lives: Spies and Writers in the Secret Soviet War of Ideas against the West, later published as Double Lives: Stalin, Willi Munzenberg and the Seduction of the Intellectuals, Koch talks about "soft" Soviet penetration into the West by manipulating key government, public, and private figures and institutions. He outlines how longtime German Communist Willi Munzenberg helped to orchestrate an army of agents to bolster the Communist cause by "persuasion." In a review on the American Enterprise Institute Web site, Mark Falcoff wrote, "In Koch's telling, Munzenberg's particular genius was to recognize how ostensibly nonpolitical attitudes and impulses among Western intellectuals, clergy, artists, and also society leaders, businessmen, and politicians could be put to use for covert Soviet purposes."
(Excerpt)
故リチャード・パイプス教授のゴーリキー言及に加え(pp. 273, 398)、ランダム・ハウス出版の『ロシア革命』(1990年)が参考文献として上がっている(p.367)。
ゴーリキーもヘミングウェイもジイドも、中学や高校の参考文献に堂々と掲載されていた記憶がある。私の学生時代は、そんな風だった。その結果、今や中核として奇妙な日本社会を形成しているのである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180606)。
「一粒の麦もし死なずば」というが、リチャード先生が5月17日に逝去されたことによって、さまざまなことが明らかになりつつある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180601)。日本では政治経済面だけが重視されるきらいがあるが、今後、もっとロシア革命の真の意味が検討されるべきだと思う。
ところで、邦訳書の有無云々について少し考えてみたい。ある筋から出版社が圧力を掛けられて、海外では評価が高かったり、注目されていたりしても、内容が知られると都合が悪いため、日本では訳されもせず、事情を知らない層が放置されたままの書物があるというのである。上記本は、それに該当するらしい。
確かに、日本の学校制度だけで教育を受け、日本語のみで暮らしている我々にとって、言語の壁や訳出されるまでの時間差は大きなハンディである。だが、専門家以外でも、原書をそのまま読む人々が、日本にはいるはずなのである。だからこそ、抄訳程度でもよいので、研究者があら筋を紹介して話を院生や学生層やメディアに広めておくとか、ブログで上澄みだけでも紹介する個人レベルでの努力が、各方面で必要とされるだろう。
同時に、その逆の現象にも留意すべきである。最近の英語圏では、翻訳言語数を競う傾向が盛んなようで、質の注目度とは別に、内容を広める宣伝目的のために、機械翻訳は勿論のこと、著者や機関みずから訳者を募って訳させる戦術がある。ウェブでは、出版社の複数の経路を省くことができるので、簡単かつ安価である。
この方法は、一概に悪いとは言えない。訳されなければ知られなかった情報が含まれているからである。是非はともかくとして、知っておくべき事実もある。また、他人に訳業の労を取らせる以上、その著述には、全否定できない重要な側面が確かにあることだろう。
だが、多くの言語に訳されているから評価が高く、人気があるとは言えない。アクセス数を誇るために、翻訳言語数を広げる場合もあるだろう。但し、インターネットの性質からして、本当に質の高いものが、必ずしも瞬時のアクセス数を引き寄せるかどうかは疑問である。
例えばアマゾンで、読者コメントの桁数が多いのみならず、10年以上経った古い本が新たな読者を次々と獲得している場合ならば、それは存在意義のある本なのだろう。
街にある古い書店を巡るのが楽しみだった時代に育った者として、やはり人と人は直接の面識を持ち、背景を知った上で付き合わなければ無駄をするとも感じている。