ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

敗戦シンドローム

この国には、一種の敗戦シンドロームが今でも人々の深い所で根付いているのかもしれない。
社会主義を志向したGHQ政策の真の成果は、戦前の教育を受けた層が世を去った三世代後、つまり我々の世代以降、現れたと言うべきかもしれない。
戸籍や土地の管理(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141228)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171031)、家族制度(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151219)、経済政策、教育制度、メディア路線、人口縮小問題、子育て、高齢者対応等、さまざまな所で、本来の日本人らしからぬ妙な論議が突然出てきたり、変な主張を平気で通そうとしたりするケースが後を絶たない。
アメリカは世界中の移民難民の子孫から成り立っており、若くて活力あるダイナミックで広大な国なので、GHQイコール反米思想に染まるのも、また危険である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150815)。
相手をよく研究して理解を深め、自国の本質に照らし合わせて取捨選択した上で、価値観の摺り合わせをする作業が必要であろう。
日本は海に囲まれた列島の小国。「人材こそが資源」なので、常に刻苦勉励、勤勉さと誠実さを持ち前として、国内外を広く深く学び続けながら、生き延びていかなければならない宿命を持つ。
日本とは異なった文化を有し、政治思想も日本の主流に反するイデオロギーで成り立つ、旧ソ連のロシア、中国、朝鮮半島という国々と海を隔てて接しているため、今のような隙間だらけのお人好し日本では、この先、とても不安である。
国体としての天皇や皇室でさえ、現在は不安定要因が誰の目にも明らかである。
国内には、在日工作員コミンテルンの策動が、予想以上に蔓延っているようだ。
欧米のリベラル左派による来日講演や翻訳書の普及によって、「反日ネットワーク」と呼ばれる「日本を変えよう」「世の中を変えたい」と主張して憚らない勢力ないしは運動が、大学やメディアに出来上がっている。
メディア系列では、お馴染みの朝日、岩波、NHKが代表的だが(http://blog.goo.ne.jp/ikeiketarou/e/efaa6887904f182a1bfc5e6a90551b35)、保守系と呼ばれるメディア媒体の読売や産経でも、時々(あら?)と感じる奇妙な記事が堂々と出ていたりするので、本当に要注意である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170410)。
例えば、二年前の今頃、杉原千畝を描いた映画を見ていた時にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160123)、「世の中を変えたい」というセリフが突然出てきて不審に思った。杉原千畝氏の行為にはさまざまな解釈があるようだが、何も国家権力に反抗するために査証を発行したわけではなかろう。(参考:エリ=エリヤフ・コーヘン藤井厳喜ユダヤ人に学ぶ日本の品格PHP2007年)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171211「杉原はいつの間にか、"反国家"のヒーローに祭り上げられてしまったかのようである」「杉原の名が、反国家のシンボルとしてではなく」(pp.225,229-235))
一方、リベラル左派だからといって全否定するのも、おかしい。というのは、やはり何事も是々非々で、中には参考になる質のものも含まれているだろうからである。組織内で良心的に努力している人々も皆無ではなかろうからである。
大切なのは、全体の傾向を知り、適切に見分けて、賢く取捨選択することであろう。
だが、希望がないわけではない。日本は古い伝統を持つ国であって、日本人のDNAの中に代々伝わってきた本質への憧憬がある。だから、一旦目覚めると、案外に修正が早いのだ。
例えば、最近、小学校で道徳教科書が導入されることになり、子ども達が二十年前よりは落ち着いて素直になってきた。ゴミ捨て場や散歩道で、見知らぬ私にも、きちんと挨拶する少年少女が増えてきた。
また、この頃では、家系図を書くことや神社仏閣参りが再び流行している。
歴史教科書でも、修正主義というのではないが、五十年後に公開資料が新しく出てきたことによって、歴史解釈の変更を迫られるようになり、かつての評価が逆転する事例も出てきた。学者やジャーナリストも同様である。
既得権を失いたくないとしがみついている人もいるようだが、そこで真の評価が見極められよう。
母方の祖母が、中学や高校の頃、よく私に「今の学校ではそのように教えているけれど、昔は違った。戦前の教育を受けた年配の人が見ていて、不愉快に思うかもしれないから、気をつけなさい」と諭してくれていたが、お陰様で、当時からその覚悟はできていて、古い本を読んだり、昔の話を聞いたりすることには慣れている。
問題は、妹と弟である。
それぞれ三歳と十歳も年下なのに、長い間ずっと、戦後の自由思想というのか民主主義というのか平等主義というのか、自分の方が私よりも頭がいいと常に家の中で豪語していた。半分本気で半分冗談だろうと思っていたが、その配偶者が二人共、きちんとした挨拶どころか、主人や私から逃げるように走り去って行った事実から、全実態が垣間見える(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170730)。
第一、文部(科学)省の教育政策を調べてみると、私の時よりも授業時間数が減ったり、学校のカリキュラムが「ゆとり教育」に向けて徐々に低下したり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161216)、受験科目が緩和されたり、大学の一般教養がなくなったりしていったのに、どうして読書もせずに学校の課題だけをやっていた妹や弟の方が、私よりも「頭がいい」と言えるのか?
根拠なく年上を馬鹿にすると、自分が馬鹿にされる。つまり、自分がしたことが返ってくるのだ。
家の中で父親や姉を軽く扱う癖がついていると、血の共有項のない他人だらけの学校や社会で、適切な行動が取れるはずがない。表面だけは従っているつもりでも、言葉の端々、態度のそこかしこに、本音が見え隠れしてしまう。
だからこそ、その隙を突いて、「類は友を呼ぶ」の諺通り、まともに家族紹介もできないような変な配偶者が引き寄せられたのではないだろうか。
名古屋ではトップ校を出て堅気の職業だった父親に対して、その苗字だけは引き継いでおきながら、地上から名前を消し去った。遺族が十数人も揃っているのにも関わらず、全く無縁仏のように数字とアルファベットにしてしまい、そこで子どもも一緒に手を合わせているような大馬鹿者である。私には納骨式の連絡もせず、事後報告メールが一本届いただけである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160225)。
非常識にも程がある。
だからこそ、法定相続人の私の遺産はゼロでも、全く平気なのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)。黙って海外へ移住して、ピースマークをして子どもと遊びまくっている写真を、平然とフェイスブックに載せていたのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170910)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171116)。
こんな状態では、いくら子どもを甘やかして可愛がっているつもりでも、結局は同じことを子どもからされるだろう。というのは、全国津々浦々で共通している日本の流儀を無視して、親が勝手なことをしているからなのだ。
この状態が続けば、残念ながら甥や姪は、私達が経由したような学校を出て、高学歴になることは望めず、堅気で高所得のまともな職業にも就くことは、まずないだろう。
血を受け継ぎ、分け合ってきた家族親戚への挨拶や礼儀作法をないがしろにしたまま、自分だけが人生で成功することなど、絶対にあり得ないからだ。
その延長線上に、日本の伝統文化を軽蔑し、揶揄するような軽薄メンタリティが醸成されるからだ。