ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

第一子の務めは仇に

若い頃、(自分の国のことだから、小学校から大学院まで国公立の教育課程を経た以上、日本について学ぶことは、大人になってからでもいつでもできる。基礎だけは今しっかりと)というつもりでいた。西洋文化キリスト教クラシック音楽、ゲルマン語系とロマンス語系の語学)や東南アジア(イスラーム、民族問題、戦前戦後の日本との関係)については、まだ頭が柔軟で、体力もあり、社会的に庇護者がそばにいる若い時代にこそ、精一杯努力して学んでいかなければチャンスを永久に失う、と思っていた。
それで正解だと今でも思うが、結婚してからこれほど本が読めるようになるとも予想してはいなかった。
さて、昨日の夕食には、デザートとして葡萄を出した。昔は一房を半分に分けて、できるだけ節約して長持ちするように食べていた。思いっきり食べてしまうには、精神的な逼迫状態に置かれていたからでもある。
...と書くと、何とも我ながら労しい思いがする。でも、これが事実である。
葡萄で思い出したが、十歳年下の弟は4月末の生まれで、ちょうど今頃の季節から、離乳食を始めた。母乳や粉ミルクやお白湯さん以外に、飲み物としては果汁。葡萄をよく洗って、細かな網目の上に一粒ずつ置き、スプーンでつぶして、下に置いたコップの中に30ccから50ccほど絞り出し、哺乳瓶に移して飲ませていた。残りの果実は、傍らで眺めている私の口に入って来た。
見ているとおもしろいので、「私もやりたい!」とせがんで、自分の膝に弟の頭をちょこんとのせ、葡萄の果汁を入れた哺乳瓶を口にくわえて、むせないように、「おいしい?」と尋ねながら、ゆっくりと飲ませてみた。
だから、小学校4年生の時点で既に、母親教室に行かなくても、私は何とか間に合っていたのである!
だが、今となっては、当時のことが全く信じられない状態が発生している。結婚するまではまだ連絡が取れていたが、父が亡くなった2013年2月中旬以降、遺産は今も法定相続人の私に全く分配されていないし、納骨の連絡も後日メールのみ、しかも父は今や、地上から永遠に名前が消されて、アルファベットと数字だけの場所に小さく収まってしまったのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)。
海外にいるらしいのだが、住所も何をしているかも知らされていない。たまに見るフェイスブックの写真では、いつも子どもと遊んでばかりいて、しかも親が子どもと同じレベルに低く下がってしまっている。これで京大の専任教員なのか?研究報告はどこにあるのか?税金は、こんなことに無駄遣いされているのか?
結婚相手について全く紹介がない三歳年下の妹についても、同様である。幼稚園から高校まで同じ所に通って育ったのに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071227)、今では連絡が取れない。
幼かった頃、妹がはしかで熱を出した時、「お姉ちゃん、本を読んで」とせがんだので、一生懸命に説明付きで本を読み聞かせしたのは、私だった。
先日、久しぶりに訪れた名古屋の栄のテレビ塔の下には店舗が並んでいたが、昔は多くの鳩が、地上をポッポと首を鳴らして歩いたり、テレビ塔の裏側を集団で派手に飛び回ったりしていたものだ。それで、屋台のような所で、餌として小さなビニール袋に入れたトウモロコシが売られていた。なんと妹は、鳩を眺めるのみならず、気がつくと、屈んで鳩用の餌を拾って口に次々と入れていたので、「ばい菌がついているよ!病気になるよ!」と慌てて止めさせたのも、私だった。
水泳教室に一緒に通っていた小学生の頃、曇り空で寒かったのに、屋外プールに一人で唇を真っ青にしながら「おふろ」と言って浮き輪の中で歌を歌っていた妹を発見して、「そのままだと風邪引くよ!」と手を引っ張って屋内の温水プールに浸からせたのは、私だった。
近所の子と一緒にかくれんぼをして遊んでいた時、気がつくと庭の木の下で蜂に唇を刺されて水ぶくれのように膨れたまま縮こまって隠れていた妹を見つけて、「何しているの!毒が回って死んじゃうよ!そういう時には、タンマをかけて出て来ないと」と連れ出したのも、私だった。
父の葬儀の時でさえ、「長女のくせに、何もしない」(←葬儀の受付は私がすべきだったのに(!)、遺族席に座ったことを指すらしい)「姉らしいことは何もやらない」と、妹と弟からなじられた私だが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160227)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170116)、子どもの頃のアルバムを見ても、手をつないだり、肩に手を回して仲間扱いしていたのは、常に私だった。第一、最も早く嫁に出て、主人の実家と義母の実家の葬儀もお掃除もお見舞いも手伝ってきた私が、なぜ育った家までいそいそと仕切る必要があるだろうか。父の苗字を継いでいる、喪主であった長男の弟の嫁は、父のお通夜にも葬儀にも子どもと共に欠席。妹の子は普段着で出席(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140128)。非常識なのは、どちらなのだ?
一体全体、いつからこんな風になってしまったのだろうか。
一つ思い当たるのは、妹も弟も、それぞれの配偶者が、初めて会った時に私(や主人に対して)きちんと挨拶ができず、私から逃げるように走り去って行ったことだ。後ろめたいから、真っ直ぐに向き合えないのだろう。
「本人同士の結婚」だから、うっとうしい家族は極力遠ざけて、自分達だけで暮らしていくと決めているらしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160225)。だが、現実問題として、そういうことは、社会人としても人の子の親としても、あり得ない。
あり得ないことを実行しているから、時が経てば経つほど、ますますおかしなことになっていく。
今月23日から25日までの名古屋・知多のルーツ辿りの旅の間(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170727)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170728)、繰り返し、そのことを考えていた。