ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

傍を楽にするために

正規雇用契約社員の事務職について、ここしばらく、いささかきつい苦言を記したが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160313)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161018)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180824)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180907)、全ては私自身の経験に基づく問題意識から発している。
公的な統計によれば、正規職と非正規職の人口比は、凡そ2対1となっている。つまり、三人に一人は非正規職で頑張っているという計算になる。
私だって、20代から40代前半までは、母校も含めて非常勤の大学講師を幾つかの大学で務めたことがあるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071021)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091223)、これとて「非正規雇用」「契約業務」の範疇に含まれると考えることもできる。将来の職の確保も保証も、何もなかったからである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150405)。
但し、当時、私自身が「差別待遇」だと感じたことがなかったのは、殆ど全てが教授の紹介によるものだったからである。また、若い頃は何でも下積みだ、「苦労は買ってでもせよ」と覚悟していたからでもある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160130)。
仕事が与えられたら、その場で全力を尽くして、吸収できるものは吸収し、謝礼や給与以上の働きをしようと、固く心に決めていた。評価を求めてというよりも、その方が自分の気質に合致していたから、自然とそうなった。
最近、「働き方改革」が提唱されているが、文字通りの促進事項に期待するだけではなく、同時に裏側事情や反対意見も考慮に入れる必要がある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170422)。
社会人としては、いかなる職にあっても日々勉強の連続で、仕事を通して学ぶことに終わりはない、と心得るべし。資格を取得したから「安定して働き続けられる」と幻想を抱くのは、大変に軽率である。
私の学生時代で喩えるならば、「英検1級」に合格したら即座に英語を活かした職が見つかると、安易に考えているようなものである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)。
このように厳しいこと(というよりも、昭和時代には当たり前だった常識)をあえて書くのは、自分の妹や義妹の態度を見ていて、実に危険極まりなく、歯がゆかったからである。
はっきり言って、物の考え方が甘過ぎ、見通しが浅過ぎる。
だからこそ、亡父からの相続人としての私の遺産の分け前も、まるで横取りしても平気だったのだ。今でも、私はゼロ円のままである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170730)。
法に照らせば、これは明らかに法定相続人の権利侵害という、レッキとした犯罪行為でもある。だが、民法を知らないから、「子育て」しているからとか何とか言って、隠し通せると思い込んでいるのではないか。
三歳年下の妹については、幼稚園から高校まではずっと同じだったので、同じ教育課程の下にあるはずだと、私は長らく想定していた。ところが、文科省の教育政策を調べてみたら、何と私の学年よりも、さらに低い教育内容だったのである。
十歳年下の弟に関しては、京大現役合格だったとはいえ、出身高校の偏差値が私の母校より10近くも低いということを、やっと先月になって初めて知った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180826)。高校の同窓会に出て、同じテーブルの先輩方とお話していた時、弟の出身高校の名前を言った途端、(え?)という表情をされたことがきっかけで、帰宅してから初めて高校の偏差値というものを調べて明らかになったのである。
私はいつでも自分のことで精一杯で、早く自活しなければと必死だったため(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171007)、本当にこれまで何も気づかなかった。
これでは、同じ親から生まれたきょうだい同士で、同じ屋根の下で育ったとは言え、受けた教育環境が全く違うと見なさざるを得ない。弟は理系に進学したが、会話の中でも文系の教養が殆どないことが丸わかり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180728)。恐るべき事態である。だからこそ、勤労意識も人生設計も、まるで甘々なのである。
「いつまでもあると思うな親と金」という戒めの言葉があるが、私に言わせれば、「いつまでも日本が先進国だと思うな」と言いたい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120827)。
自由な資本主義経済の日本だと長らく思い込まされているが、実は中国人の国費留学生が「日本の方が社会主義的だ」と言っていたのは、1980年代後半の私の院生時代だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071102)。
今でも、競争的な資本主義経済でありながら、国立の機関や社会保障や福祉制度等は、限りなく社会主義的になっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180907)。
平成になってから、「安心して暮らせる」「楽しく過ごす」「上から目線はいけない」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150410)「女性が働きやすい職場」等と喧伝され、「子育て」がまるでファッションのようになっている。自己紹介や履歴書にも、わざわざ「二児の子育て中」等と書く女性教授がいて、目障りで仕方がない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161014)。「子育て」は履歴ではない。あくまで生物学的な私的領域であり、産んだ以上は、まっとうな社会人として世に送り出す家庭教育を施すのが、母親の務めである。
この頃では、職を求める時でも、まずは自分の条件を先に出して「働きやすい」かどうかで選別していく風潮がある。
だが、そもそも「働く」とは、「傍(はた)」を「楽(らく)」にするという意味であったはずである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161227)。自分の時間や労力やエネルギー等を差し出すことで、世の中を少しでも前進させ、その対価として給料をいただく、それが「仕事」だった。外に出る以上、ある程度の自己犠牲は当然の前提条件であった。
それが今や自我が前面に出ているから、求職も職場環境も押しなべておかしなことになっている。
私が1分の無駄にもうるさいのは、現実問題として、人口減少に伴う公共交通機関の不便さがある。
私の住む地域では、以前、バスが少なくとも15分に1本は走っていた。ところが、人口減少に伴い、従来の時刻表に律儀になると、空バスを走らせたり、まるでタクシーのような一人乗客が増えていった。バス会社の採算が合わなくなり、今や半時間に1本ないしは1時間に1本に減ってしまったのである。
先日、隣町に歴史講演会を聞きに行ったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)、同じバス会社の時刻表を見ていたところ、鉄道の駅前なのに、何と2時間に1本しかないのであった。
これでは、たった1分遅れたばかりに、2時間をバスの待ち時間に当てることになる。高齢者や自家用車を持っていない人の場合、とんでもない話だ。
この度、我が家が転居を決心したのは、進行性難病を抱えながらも何とか定年まで勤務を続けていく上で、通勤バスの時間帯が著しく変更されたことが大きく与っている。体調を整えていたら、バスに乗り遅れ、遅刻の連続になっては、勤務が成立しない。
そんなことも知らずに、「住民票」「保健所の確認」云々と馬鹿げたことを言うな(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180907)!
....と、私は言いたい。その余分な一言によって、またバスに乗り遅れてしまうではないか!
働くとは、そのような環境変化を察知することも含むのである。仕事能力とは、そのような対人的側面を多分に含む。
法を盾に戦って、「働く権利」を勝ち取って職場を黙らせるなど、言語道断である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170411)。
甘ったれるな!