ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

こまめな情報収集と分析を

一ヶ月ぶりに仙台のmugiさん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151226)のブログ引用を。

サマセット・モームhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150324)やジョン・ル・カレhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130213)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150123)やキップリング(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111009)やコナン・ドイルなどの情報活動については既知だったが、mugiさん解説は要領よく簡潔にまとまっている上に、なかなか興味深い内容なので、部分抜粋でご紹介する。

http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/f8a783be288fc34f736ed15467c954d5


「スパイだった作家たち その一」
2016-01-10


・昨年8月31日付の河北新報の国際・総合面に、英国人作家フレデリック・フォーサイスに関する記事。
・「英人気作家「私はスパイだった」」「フォーサイス氏、自伝で告白」「MI6に協力、冷戦下の東独や南アで極秘任務」。
フォーサイスは祖国でも「右翼作家」「筋金入りのタカ派」といった非難を受けていたが、MI6と協力、スパイ活動をしていたのだから、それは当然だろう。著書にも共産主義労働党政権への厳しい非難が見られ、彼自身は“右翼作家”呼ばわりには動じなかったと思う。
・MI6に協力した英国の人気作家はフォーサイスだけではない。007シリーズを生んだイアン・フレミングがかつてスパイ活動をしていたのは知られているし、wikiのSIS(Secret Intelligence Service、英国情報部)の解説には著名な職員として、グレアム・グリーンサマセット・モームジョン・ル・カレH.G.ウェルズなど錚々たる一流作家の名が載っている。
第一次世界大戦時に大々的に行われた対米宣伝で、宣伝物の執筆者にはキップリングやシャーロック・ホームズで有名なコナン・ドイルもいたという。
・世界に冠たる大英帝国を築いた英国こそが、プロパガンダの本家であったのは想像に難くないが、別に近代になってからの現象ではなかった。
作家をスパイとして使うのは英国情報部の伝統
・ウォルシンガムの作家スパイとして有名なのは、クリストファー・マーロウと云われる。エリザベス朝時代に関心がない限り、日本ではあまり知られない人物だが、当時を代表する劇作家・詩人。
・ウォルシンガムがケンブリッジからマーロウをスカウトしたのは1580年頃と見られ、マーロウが最も活躍したのは1587年であったと言われる。ちょうどアルマダの海戦前年であり、その頃までにウォルシンガムの海外スパイ網は確立されている。
・ウォルシンガムはケンブリッジ、オックスフォードの秀才をスカウトしており、これまた英国情報部の伝統になっていく。極東の島国と違い、最高学府を出たインテリがスパイとして祖国のために働くのは、英国にとって義務とされているようだが、これが「普通の国である。

(部分抜粋引用終)
すなわち、大英帝国の威力は情報力にあったということだ。今でも、生き延びるためには情報収集力と的確な分析力が不可欠。国のみならず、個人としても同じだ。
古今東西、古典と共に同時代の読書を自分なりに継続していかなければ、足を救われ、道を誤ってしまう。安穏とはしていられない。
今では何でもスマホに頼るようだが、当然のことながら、落とし穴があることに留意。あまりにも簡単に画面に提示されるので、あたかもその情報が真実で正しいと、つい思い込ませてしまうのだ。
「自分で判断を」とよく言われるが、兼好法師の『徒然草』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100711)の52段にある仁和寺の法師の話「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」にあったように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110302)、やはり経験の積み重ねによって判断が鍛えられた適切な導き手が必要である。
最後に、故澤田昭夫氏の16年前のご遺稿から、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150403)で抜粋しなかった箇所を以下に再現する。これによって、日本のキリスト教会の右派も左派も問題山積という現状(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110818)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110819)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110822)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110825)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110826)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110827)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110830)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110902)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110903)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160109)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160112)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160113)の背景が理解できよう。実は、上記の情報力と分析力が最初から不可欠だったはずなのに、ごく一部の指導者を除き、それを怠ったことが反映されている。
澤田氏のことは『論文の書き方』で最初に知った上、南山大学教授でもいらしたので、名古屋出身の私にとって、お名前はよく存じ上げていた。ただ、昔のカトリックは高嶺の花というイメージで、イエズス会の学問修道会と気品漂う中上層の子女の通う学校だという印象であったため(ユーリ後注:南山大学がドイツ系の神言会が母体であることは、名古屋で知り合った後藤文雄神父様から(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071105)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071211)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080120)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080320)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080407)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080903)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20081219)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101208)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110329)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110405)、1990年代前半のマレーシア帰国後に伺った)、遠くから仰ぎ見ている状態だった。
以下の文章は、9.11前に書かれたものである。もし、もっと早くから広く知られていたならば、関西のキリスト教組織がほぼ軒並み、なぜ自分の予想もしなかった、知らない雰囲気を漂わせていたのかが即座に理解できたことだろう。

http://christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2007/2007_04/2007_04_report.html


カトリック教会の左傾化 (第1回)
君が代」反対から「沖縄米軍基地」反対 そして環境問題


東京純心女子大学教授 澤田昭夫
(『月曜評論』平成12年5月号掲載)


・昨年12月初頭、関西の私的団体「カトリック学校の日の丸・君が代元号を考える会」から全国のカトリック系小学53校、中高208校、大学・短大44校に「日の丸・君が代」反対の文集とアンケートが送られた。
・反対運動の震源地は箕面聖母被昇天学院の教諭だが、反対文執筆者には小樽、清瀬、川崎浅田、玉造などの神父京都ノートルダム教育修道女会の修道女から松山や箕面の高校教師だけでなく、(反体制「韓統連」系の)「在日韓国民主女性会」大阪本部事務局長や「正義と平和協議会」(略称「正平協」については後述参照)東京本部事務局長そして大阪の松浦補佐司教と安田元大阪大司教東京の森補佐司教が含まれている。実はこの反対運動はプロテスタントの日本基督教協議会(NCC:後述参照)内靖国特別委員会とカトリック正平協との合意、了解済みの「エキュメニカル」(後述参照)運動の一環。
キリスト教は本来ユダヤヘブライ系のアジア的宗教として始まったもので、西洋宗教ではない。Annodominiを「西暦」と呼ぶのも誤りで、本来東西を越えた「主暦」と呼ばるべきものである。日本カトリック反「君が代」、反天皇制運動は、自衛隊、反「ガイドライン」運動と同じく、「反東洋」ならぬ「新左翼」運動
・二十世紀は神や超越存在を否定する啓蒙合理主義、唯物世俗主義、平等主義という、十八世紀のフランス革命で決定づけられた時代である。超越神を否定し、その代わりに十八世紀は民族を、十九世紀は階級を神格化
・1917−1945年という時代は、E・ノルテ(Nolte)がいうように、二つの全体主義すなわち共産主義(国際主義、階級主義、反自由市場経済)とナチズム(反共、民族主義社会主義)の抗争の時代反自由画一主義と社会主義という点で類似するこの赤と茶の二つの全体主義の戦いが二十世紀前半の世界。
・いまだに流布されている大きな誤解は、戦前の日本史はファシズムの一人舞台だったという誤解。そもそも10年間に14回も内閣が変わった国にファシズム(団結主義)はありえない。舞台の主役は国際共産勢力で脇役が日本民族主義。日本の対鮮、対支、対満政策は膨張する赤い全体主義への儚い対応。
・駐ソ米国大使ビューリット(Bullitt)の国務省宛1935年7月19日付電報によると、日米戦争こそソ連が熱望しているところだった。そして、ルーズベルト時代のホワイトハウスが親ソ要員だらけのピンクハウスだったこと、大統領がいかにソ連願ったりの対日政策を展開させて日本を開戦に追い詰めヤルタ会談によって戦後世界の赤化に寄与したかは最近公開の公文書で益々明らかになった。
・戦時中のいわゆる残虐行為が日本の専売特許だったとする誤解ないし歪曲。証拠は、連合国特にソ連、中国による日本人に対する無数の労働強制事件、残虐不法行為等、虐殺が事実として立証され得るにも拘らず沈黙のうちに葬り去られていることである。
共産主義による残虐行為や国際法無視の違法行為について沈黙するのは全体像の歪曲に他ならない。クルトワ(Courtois)編の『共産主義黒書』によると、共産主義者たちによる1918年以来の虐殺人口総数は今日まで少なくとも八千万、恐らく一億にのぼっている。
・二十世紀前半の赤茶の抗争は茶の敗北、つまり赤の勝利で終わった。そして、二十世紀後半は勝った赤の膨張時代である。これを認知しないのが第三の誤解。
ナチス支持の多かったのはプロテスタント多数の北と東で、カトリック多数の西と南でナチスは少なかった。
プロテスタントは、昭和15年皇紀2600年の神嘗祭に青山学院に集まり、国歌斉唱のうちに皇運と大東亜共栄圏を奉祝し、「日本基督教」による教派解散と大陸伝道を誓い、翌16年公式に「日本基督教団」を設立し、聖戦の目的完遂のための宗教報国を誓った。
・戦争直後の1945年、ドイツの「福音教会」が南ドイツのシュトットガルトで「罪責告白」
・ニケア・コンスタンチノポリスの「信仰告白」を尊重する「教会派」は少数、それにたいして政治的実践に走る「社会派」が多数となった。
エキュメニズムとは、第一次世界大戦と前後して主にプロテスタントのなかで展開されたキリスト教諸教団の「教会一致運動」、「教会合同運動」のことである。1910年から1937年にかけて展開された「信仰と職制」(Faith & Order)、「生活と実践」(Life & Work)、世界伝道協議会などの運動がその具体的表現であった。そこには、救世主キリストの福音を中心に一致し、世界的伝道に励もうとする空気があった。
・WCCに加盟する国別の教会組織はNational Council of Churches(NCC)といわれ、わが国では、先述の「日本基督教協議会」と呼ばれるようになっていた。
エキュメニズムカトリックプロテスタントの協力、和解を促進。
・紀元四世紀のニケア公会議から数えて21回目のカトリック教会の世界会議「第二バチカン会議」が1962年から3年にわたってバチカンの聖ペテロ大聖堂で開催。第二といわれるのは前回の会議もバチカンで1869年から70年にかけて開催されたからである。
・「現代的順応」(イタリア語でキーワードになったaggiornamento)がなされたことである。
・ひとことでいえば、分裂と世俗化。一方では、民主平等の名による、万事における権威の否定、柔順心否定であり、他方では、それとも関係した、神的存在、聖なるものへの畏敬心否定
・この二つの否定を第二バチカン会議の「精神」と主張する進歩主義たちによって分裂、世俗化された教会は「塩の味」を失い始めた。第二バチカン会議は、教会内部から引き起こされたフランス革命とも言われる。いわゆる「大学紛争68年世代」の反乱も第二バチカン会議後の混乱と世俗化に呼応するもの。  
会議を混乱させ、会議の結果的世俗化を利用して自己の勢力拡大を謀ったのは共産勢力。60年代当時は鉄のカーテンの彼方にあった東欧、中欧諸国のカトリック司教たちに、会議参加のための出国許可を与える代わりに、会議が共産主義批判を差し控えるという言質を予めバチカンから取り付けていたのがニコディムだといわれる。案の定、中南米を中心とする450名の司教が署名した10月19日の陳情書は、バチカンの高級官僚によって握りつぶされた。「現代世界憲章」なる重要文書案(1965年)に共産主義の危険に対する警告を挿入せよと陳情したものだった。                        

澤田昭夫氏のプロフィール
1928年ワシントン生まれ。1951年東京大学西洋史学科卒業。コーネル大学修士ボン大学文学博士。近代イギリス史、ヨーロッパ史専攻。南山大学教授、筑波大学教授、日本大学教授、東京純心女子大学教授。2015年3月24日に逝去。

(部分抜粋引用終)