ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

映画『海難1890』

昨夕、この近辺では上映最終日だということで、一人で日土合作映画『海難1890』を隣の市まで見に行った。その前に夕食も準備して、閉館時間直前の図書館にも寄って本を返し...と、なかなか忙しかった。
この映画は、トルコ・日本友好125周年プロジェクトだという宣伝広告の割には、どういうわけか一日に夕方一本しか上映されておらず、非常に行きにくい時間帯。しかも、今年に入ってすぐ発生したイスタンブールのスルタンアフメット広場での自爆テロのせいか、実際には私も含めて4人しか鑑賞者が入っておらず、まるで興業としても赤字ではないかと思われた。
話の筋はトルコの学校教科書にも掲載されているとのことで、映画作製の随分前から知っていた。
1890年9月、時は明治時代。日本への親善使節団を乗せたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、帰国に向かう途上まもなく、紀州の南沖で台風に遭遇し、難破してしまう。600名ほどが死亡した中で、69名が地元の村人達の懸命な救援活動によって助かった。時は流れ、1985年3月のイラン・イラク戦争テヘランに舞台は移る。サッダーム・フセインの攻撃予告を受けて、テヘランに駐在していた日本人は、出国用の飛行機が日本から飛ばされないことに恐怖と絶望感で戸惑っていた。そこへ、トルコのトゥルグト・オザル首相の英断により、日本人をトルコ航空に乗せてテヘランから救出せよ、との命令が下され、おかげ様で215名の日本人が助けられた、という実話に基づく。
映画としては非常に単純な構図で、どちらかと言えば、日本側よりもトルコ側にとって嬉しい内容ではないか、と思われた。また、全体として中途半端な作りで、日本側の俳優が「文化の壁を乗り越えて」と繰り返していたところを見ると、どうやらトルコでも和歌山でも、ロケが大変だった様子が伺える。昨年12月に見た映画『杉原千畝』とは、同じ外国ロケでも相当の差があったのではないか、と思われた。
ハル/春美という名の時代を経た二人の若い女性を一人で演じた女優さんは、オーストラリア育ちらしい。どこにでもいそうな普通の雰囲気で、映画の中では愛らしさと芯の強さも出していたが、本来、何のために女優を志しているのか、よくわからない感じの人だった。
イラン・イラク戦争当時、春美さんはテヘラン日本人学校の教師を務めており、危機に際して、周囲の日本人の同僚や駐留家族に国外脱出を促すのだが、「先生」と何度も呼ばれているシーンを見る度に、同年齢ぐらいだったかつての私も、湾岸戦争の頃、マレーシアで「先生」と呼ばれていたことを思い出させた。外見から(あんな若さで、何を考えてあんな国で)と思われていたのだろうと、今更のように苦笑した。
最後に、エルドアン大統領がトルコ語で三分ほどメッセージを寄せていた。トルコにせよ、イランにせよ、ロシアにせよ、日本に対する好意は、外交上、無視できないものの、肝心の日本国民の方が、今ひとつ相手に乗り気ではない点が悩ましい、と再度思った。
但し、我々が直接、トルコ人相手に向かって言うべきことではないとも思う。それは、テル・アヴィヴからの帰国途上の昨年5月7日に、トルコ航空のフライト・スケジュールの緊急事態により、イスタンブールで一泊することになった時にも感じたことだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150528)。
「行きはよいよい、帰りは怖い」を文字通りなぞった事態で、アタチュルク国際空港に到着したばかりだというのに、次の接続フライトが既に最終コールの掲示。(そんな馬鹿な)と思う間もなく、どんなに頑張ったとしても乗り込めなかったのだ。
初めての国だったし、トルコ語は全くわからなかったが、やはり二十代の半ばにマレーシアでイスラーム文化に馴染んでいたことが幸いした。白いムスリム巡礼服姿の団体や、アフリカからのムスリム集団でごった返していた広い空港内も、何をすべきで何をしてはいけないかを察し、時差と疲れで非常に眠かったことを除けば、一応は安全であった。
空港内のトルコ航空のスタッフに「どうしても今日のうちに日本に帰らなければならないが、この乗り継ぎ失敗は、私の責任ではない」と問い詰めると、カウンターに座っていた、スカーフ姿でムスリム服を着た薄青緑系の瞳に色白の女性は、殆ど英語がわからず、焦ってパソコン操作にますます戸惑っている様子。他にも「明日、シンガポールの学会で発表しなければならないんだ。どうしてくれる?」「泊まる金もないんだ。今晩、どこに寝ればいいんだ?」と詰め寄っている南アジア系か東南アジア系の中年男女の集団がぐいぐいと押しくらまんじゅうをしていたが、とにかく苦情受付カウンターは混雑して、夜中だったこともあってか、余計にゴタゴタしていた。
ところが、その最中に、隣の仕切りのある透明ガラスの部屋から出て来た黒髪に黒い目のトルコ人の男性スタッフが私の所へつかつかと歩み寄り、「あんた、どこの国の人?」と英語で尋ねてきた。即座に「日本です」と返事をすると、突然、態度が親切になり、「わかった。すぐに調べる。明日のフライトはこちらで準備する。心配するな。今晩の宿もこちらで用意するから」と言ってくれたのだった。
もちろん、その後にパスポートのチェックもあったが、叫びながら文句を言い続けている他のアジア系のグループよりも、遥かに短く簡単なもので、(これが日本旅券の信頼性とトルコ・日本関係の友好の証なのだ)と内心思った次第である。
その後、マレー人のおばちゃんみたいな感じの別のスカーフ女性のスタッフが誘導してくれた場所で数時間待たされた挙句、トルコ航空が用意したバスで、日本人ではない家族三人と一緒に、イスタンブールのホテルまで連れて行ってもらった。夜の三時頃だったので、本当に待ち時間が長く、眠くてくたびれた。しかし、トルコ人スタッフの言葉にどこまで信頼性があるかは不安だったものの、空港内では一人ではなかったし、ムスリムに対して何をしてはいけないかが、過去二十五年の国内外での経験から充分わかっていたので、その点では余裕があった。
宿泊ホテルは、恐らくは政府系であろうか、このようなフライトの緊急事態用に建てられたものだろうか、もちろん食事込みで無料。フロントは中年男性が一人で仕切っていたが、トルコ航空から事前に説明されていたためだろうか、すぐに清潔で静かな一室をあてがわれた。ベッドと窓際に書き物用の長い机があり、温水シャワー付きの個室だった。
その場で数時間、ぐっすりと眠ってしまい、目が覚めた時には既に午後。周囲は、中高層ビルも建っていたが、イスタンブールは西洋と東洋の境目だとはよく言ったもので、日本人の私にとっては、まるで日本の地方都市の中心街か駅前を彷彿とさせる街並みだった。
とてもブルー・モスク辺りまで出かける勇気もエネルギーもなく、静かに部屋の中で休み、イスラエルでの旅の思い出をメモに綴って過ごした。夕方前のまだ明るいうちに、ホテル周辺を三十分ほど歩き回って、通りの様子や野菜を売っている店やホテルで出された食事などの写真を撮るのみにとどめた。
トルコ言及の多いダニエル・パイプス先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160114)宛に、「最新のイスタンブールです」という意味で、帰国後に日本から何枚かの写真を送ったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150830)、その中に、広い街路の大きな看板に表示されていた元トルコ首相オザル氏(1927−1993年)の写真も含めた。実はなんと、冒頭の映画の中で、戦時下のテヘランから日本人を乗せて救出する飛行機を許可する指示を下した重要な鍵を握る人物として、そのオザル首相が登場されていたのだった。
当時は映画の計画を全く知らなかったので、偶然にしては、でき過ぎた偶然である。
一泊のみ、しかも予定外の緊急宿泊だったため、この一件だけでトルコの印象を語るつもりは全く無い。全体として力が漲って前向きに進んでいるイスラエルに滞在した直後ということもあってか、イスタンブールでさえ、全体として暗く沈鬱なムードが漂っていたが、「ムスリム世界では最も賢い人々だ」と従来から学者の間でも評判のトルコ人である。少なくとも、機能性一点張りのホテル内では、レストランのボーイも、フロントのおじさん達も、愛想はなくとも親切心はあったし、仕事はテキパキとこなしていた。食事は、スープにサラダ、パンと水、そして、何だか油ぎった肉の塊が数個とフライド・ポテトに赤ピーマンやししとうの油炒めと白米だけのチャーハン少し。トルコでは上等なフルコースなのだろうと思うが、スープはハーブなのか何なのか、ちょこっと変わった味だった。(お肉だけは勘弁して)とテーブルに残した時には、「食べないの?」と、わざわざ近寄って心配してくれた。「オイリーだから」と答えると、黙ってお皿を下げてくれた。
それが最初で(恐らくは最後であろう)私のトルコ・ミニミニ体験だが、上記の映画を見に行く気になったのも、やはり、リサーチ・マインドが先立ってのことであったと我ながら思うところである。
帰宅してから、ネット検索で見つけた映画評を一つ。これが最も私の感想に近いと思われる。

http://movie.maeda-y.com/movie/02042.htm


海難1890」40点(100点満点中)


お涙ちょうだいすぎる


・安倍首相きもいりで製作・公開される愛国映画「海難1890」だが、首相の盟友というべき合作相手のトルコのエルドアン大統領はいまやISの庇護者として悪名が広まっている有様である。アベノミクス外交映画として大々的に保守派に広めたかった映画会社としては、きっと頭を抱えていることだろう。
・1890年トルコの使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が、帰国途中に和歌山県沖で座礁する。闇夜の嵐の中、命がけで船員を助けたのは医師の田村(内野聖陽)をはじめとする近くの貧しい漁村の人々だった。それから95年後、彼ら無名の日本人の活躍をトルコは忘れていなかった。85年のイランイラク戦争で窮地に陥ったとき、日本人は彼らの友情の深さを知ることになる……。
・この映画では、エルトゥールル号沈没事故の原因といわれる人災については無かったことにされているし、そのほかにも両政府に都合の悪い内容は描かれない。当時の日本で大々的に起きた義援金集めの様子やそれに協力したマスコミ、国民の努力もオールカット
・たとえば非常時備蓄の意味合いがある鶏を拠出するエピソード。これをやるなら、前段階というか伏線として、(しばらく台風などで出航できず)どれほど住民が困窮していたか、そしてこの鶏がいかに重要なものかを見せておかなくてはいけない。
・それでも海難事故を描く前半はまだいい。説明すべきをせず、なのに不要な説明的セリフばかりでうんざりはするが、やはり国民レベルの善意、素朴な日本人の思いやりというものは今でも我々が失っていないものだから共感できるし、素直に涙がでる。
美談の主体が「国・政府」になるから、ただでさえうさんくさくなりやすい。より演出力が問われる難しい部分だが、前述の通りこの映画の作り手は現在の日本・トルコ政府の顔色をうかがいながら作っているので、プロパガンダ臭がひどい
・映画に政治が絡むとろくな事にならない。とくにハリウッドと違い、日本はそういう企画にまだ慣れていないなと「海難1890」を見ると痛感させられる。

(部分抜粋無断転載終)
この映画公開に際して、アフメト・ダウトオール首相、マヒル・ ウナル現文化観光大臣、オメル・チェリク前文化観光大臣、横井裕在トルコ日本大使が、祝辞と歓迎の挨拶をしたという。
主演俳優氏の言葉を以下に。

http://www.cinematoday.jp/page/A0004810


明治時代に大島にいらしたお医者さんの手記が拠り所になりました。当時のお医者さんたちがトルコ政府に送った手記がそのまま残っているんです。トルコ側から「船員を治す際にかかった治療費を請求してください」と言われ、実際に3人いたお医者さんが「そういうものは一切、いりません。困った人がいたからやっただけで、お金目当てではありません。お金は船員の遺族に使ってください」と書いていた。当時のお医者さんの心意気や、お金ではなく気持ちで動いた人たち。それを僕は大事に演じました。

(部分抜粋引用終)
私が興味があるのは、当時、なぜ医師達がそのような態度を示したかという背景である。背景や理由を知らなければ、下手をすると「日本人は誰も差別せず、見返りを求めずに無償で奉仕する心優しき民族だ」という、一種の根拠なき、偏狭で自己中心的なナショナリズムの発露に響いてしまう。一方、広い世界では「単なるお人好しの世間知らず」だと、日本人全体が軽く見られる危険性もある。この種の美談は、常に取り扱い要注意だ。
最後に、平成22年(2010年)頃にメーリングリストで回っていた、映画の筋の詳細を。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h22/jog663.html


「地球史探訪:トルコによるイラン在住日本人救出(上)」
H22.08.29


1.「頼む! 助けてやってくれ!」


伊藤忠商事のトルコ・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんの電話が鳴った。イラクサダム・フセイン大統領が、「1985年3月19日20時以降、イラン領空を通過する航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発した。
・イランにいる在留外国人は一斉に出国しようとしている。在留邦人も脱出しようとしているが、乗せてくれる飛行機がない。
・1980(昭和55)年に始まったイランとイラクの戦争は、5年経ってますます激しさを加えていた。1985(昭和60)年にはイラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆するまでになっていた。日本人学校の先生宅の2軒隣に爆弾が落ちて5人の死者が出ていた。
イラクフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出したのである。


2.日本政府は救援機を出せない


・当時、テヘランにいた野村豊・駐イラン大使は当時の状況をこう語っている。「在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運搬機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした。」
・「55年体制論争」とは、社会党の「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争につながる」という主張によって、海外在留邦人救出のための手段が必要だと言う声も、押しつぶされていた状況を指している。
・「私はただちに日本へ救援機派遣要請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした。」
空爆の恐怖に曝されている現地在留邦人は、日本政府から見捨てられた形になっていた。


3.どこの航空会社も「自国民優先主義」


・当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れてなかった。危険を感じていた在留日本人の中には、欧州各国の航空会社に発券を申し込んでいたが、どの航空会社も「自国民と外交官を優先しなければならない」と拒否した。
ソ連アエロフロートなら乗せてもらえるというので、オープン・チケット(搭乗日未定の航空券)を事前に入手していた日本人も多かった。
・ところが、アエロフロートは「ソ連人かワルシャワパック加盟国(ソ連陣営の共産国)が優先」と言って取り合わない。
・どこの航空会社も「自国民優先主義」が国際常識で、日本人を乗せてくれる会社はなかった。特に、家族連れの日本人駐在員は、奥さんや子供たちを脱出させる便が見つからないことから、絶望感と焦燥感でパニック状態に陥ってしまった。
・窮状が伊藤忠テヘラン事務所から、東京本社に伝えられた。東京本社から、「頼む!助けてやってくれ!」という悲鳴のような緊急電話が入ったのは、こういう状況だった。


4.「何故日本の航空機が救出に来ないのか?」


・本来イランと日本が当事国である。トルコは全く関係のない第三国である。
・「テヘランには大勢のトルコ人がいる。トルコ政府としてはまずはトルコ人を救出すべきなので、その対策で頭が一杯である。外国人である日本人救援のことまで頭が回らないのが実情なのに、何を言っているのだ?」


5.「体当たりでお願いしてみよう」


テヘランの在留邦人の窮状を思うと、もはや思案している場合ではなく、一刻も早く行動を起こさねばならない。焦燥感と責任感で心臓がつぶれそうだった。
・頼む相手は、無理筋の話でも、即断即決で引き受けてくれるトップでなければならない。しかも自分の親しい友人で、強い指導力と実行力のある人でなければならない。となると頼む相手はたった一人しかいない。「オザル首相にお願いしよう」と決めた。
・意を決した森永さんは、オザル首相のオフィスに電話をかけた。頻繁に電話をかけあっている仲だったので、その時も「緊急」ということで、すんなりとつないでくれた。
・「トゥルグット・ベイ! 助けて下さい」トゥルグットは、オザル首相のファースト・ネームである。ただし、男性に対する尊称の「ベイ」をつけて呼んでいた。「どうした? ドストゥム・モリナーガさん」 ドストゥムは、トルコ語で「親友」の意味である。また日本通らしく「さん」をつけて呼んでくれた。


6.「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」


・「トゥルグット・ベイ!トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救出して下さい」「テヘランにいる日本人がどうしたと言うのだ?モリナーガさん」
・トルコには何の関係もない事だが、こんな事をお願いできるのは、あなたの他にいません、と必死で訴えた。オザル首相は森永さんの話を黙って聞いていた。いつもならすぐに返事をするのに、その時は話を聞き終わっても何も言わずに沈黙を続けていた。
・「私は固唾(かたず)を呑んで、彼の言葉を待っていた。「YES」とも「No]とも言わない。私にはこの沈黙の時間がものすごく長く感じられた。その間、「断られたらどうしよう」とか色んなことが頭をよぎる。でも彼は電話の向こうで沈黙を続けたままである。やがてオザル首相は口を開いた。「わかった。心配するな。親友モリナーガさん。後で電話する。」
・小躍りしたくなるほど嬉しかったが、胸がつまってしまい、「大変、ありがとうございます。トゥルグット・ベイ」と言うのが精一杯であった。


7.オザル氏との信頼関係


・オザル氏に初めて会ったのは、この時点より10年ほど前だった。オザルさんはまだ政治家ではなく、いくつかの民間企業の顧問として働いていた。「日本は資源がないので資源を輸入し、技術力で付加価値を付け輸出している」と口癖のように言う知日家であり、親日であった。
・当時のトルコは、農業が最大の産業であったので、日本から技術を導入し、農業用トラクターの製造を行おうとしていた。しかし、当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無だった。
・1978(昭和53)年、トルコはついに外国からの借款が返済できなくなるという最悪の状態に陥った。トラクター製造事業も風前の灯火となったが、森永さんとオザルさんは力を合わせてこの困難に対峙した。この過程で互いへの信頼が強まっていった。
・オザルさんは、手腕を見込まれて経済担当大臣となり、「オザル経済改革パッケージ」を発表した。それまでの規制だらけの経済を自由化する事を原則として、これが今日でもトルコ経済運営の基礎となっている。
・オザル氏は日本の経済運営を参考にしたいと、森永さんをよく大臣室に呼んで話を聞いた。オザル氏は、その後の内閣でも経済運営の腕を買われ、経済担当副首相となった。そして1983(昭和58)年の総選挙では祖国党を立ち上げ、その分かり易い経済政策が国民に支持され、地滑り的な圧勝を遂げて、ついに首相になった。
・オザル首相は森永さんを「日本関係私設顧問」と呼びながら、大事にしてくれたのである。テヘラン在留日本人の救出を頼んだのは、それからまもなくの事であった。


8.「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。」


・数時間後、やっとオザル首相自身から電話があった。どきどきして森永さんは首相の言葉を待った。首相は落ち着いた声で、「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。親友モリナーガさん」と言ってくれた。
日本人救援のため、テヘラントルコ航空の特別機を1機出す。詳細はトルコ航空と連絡をとったら良い。日本の皆さんによろしく。
・「トゥルグット・ベイ!大変、大変、大変ありがとうございます。何も難しい質問をせず、私のお願いを聞き入れて頂き、ありがとうございます。日本人の救出のために救援機を出して、後で政治問題になるかもしれないのに、リスクを取って大決断して頂き、ありがとうございます。どんなに感謝しても、感謝しきれません。早速テヘランの日本人にこの大英断を伝えます。大変ありがとうございます。」
・この朗報を直ちに東京経由でテヘランに伝えた。しかし、テヘランの日本人は、その情報をにわかには信じられなかった。それまでどこの航空会社にも搭乗を拒否されて、絶望の淵にいたのだ。急にトルコ航空が特別機を出すと言っても、信じがたい思いだった。
テヘランには600人を優に超えるトルコ人ビジネスマンが滞在している。トルコ航空が特別機を出すと言っても、彼らを優先するのが当然なので、日本人まで席が回ってくるか、といぶかしく思ったのである。


森永堯『トルコ世界一の親日国 危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空


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「地球史探訪:トルコによるイラン在留邦人救出(下)」
H22.09.05


1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」


・「フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。」
・野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った


2.「この任務を皆、喜んで引き受けました」


・機長のスヨルジョ氏は語る。「このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、現地へ向かうということでした。」
・「私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否することもできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、この任務を皆、喜んで引き受けました。」


3.搭乗券を手にすると、歓声があがった


東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さん「昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました。」
・どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否していたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、本当に搭乗できるのか、疑心暗鬼であった。最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると、歓声があがった。懸念が安心に変わると、後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ、順番が来るのを待った。


4.「飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした」


・救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種
・客室乗務員のキョプルルさん「エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に、早くお客さまを乗せ、一刻も早く出発しなければならないということを強く意識しました。乗客の方々は皆、恐怖を感じながらも、テヘランを脱出できるという喜びに溢れていました。私たちもその感情を共有することができました。私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました。」
・飛行機がテヘランに到着してから、217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。
・客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性がにこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。


5.「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」


・救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。この山を通過すると、スヨルジョ機長はアナウンスを行った。「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ
・機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。「トルコ領に入ったぞ!」「イランを脱出したぞ!」「やった!やった!」「万歳!万歳!」
・家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず、喜びを爆発させていた。


6.「我々は地獄から天国に来たのだ」


・トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て、驚いた。
・薄汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で現れたのである。殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。お気の毒としか言い表せなかった。無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。
・ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。
・森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し、席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、皆が美味しそうに口にしているではないか。
・幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日、全員、無事に日本に向かった。


7.「あなたを独りにしておかない」


テヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、その便で100名程度のトルコ人が帰国した。残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのであるテヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、外国人である日本人に特別機を提供して、救出したことになる
・「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」と報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を行っても不思議ではない。ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。
・全くの杞憂(きゆう)であった。なんと、誰も問題視しなかったのである。トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに私は感銘を受けた。
武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。トルコ人は「あなたを独りにしておかない」という。困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。「武士の情け」と同じ心だろう。


8.恩返し


・森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。
トルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル成田線に就航したのである。成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。心配されていた15年のリース契約についても、トルコ航空は1度たりとも、支払い遅延を起こすことなく完済した。
・平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行った。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのである。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。


(文責:伊勢雅臣)


「受けた恩は返さないといけない」とは、立派な日本人の言葉ですね。


© 平成22年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

(部分抜粋引用終)

https://twitter.com/ituna4011


『音楽の友』2015年6月号 (http://www.amazon.co.jp/dp/B00UJXL7AA/ref=cm_sw_r_tw_dp_QO0Owb0MD8A46 …)を昨夕、近所の町立図書館から借りた。ここ二三年、この雑誌をゆっくりと読む暇がなかった。いつもは図書館内で必要なページのみを複写するが、今回、初めて借りてみた。


『日本のマルクス主義者』(1969年)鈴木 正(http://www.amazon.co.jp/dp/B000J9OBDE/ref=cm_sw_r_tw_dp_fL0Owb13CGHNW …)を昨日、近所の図書館経由で借りた。今にして思えば、といった感。

(転載終)