ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

故三浦綾子夫妻と革新思想

昨日書いた「共産思想とキリスト教」というテーマに関連して(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170523)、学生の頃、「原始キリスト教共産主義」という用語を新聞や論文上で時々見かけたものだ。
新約文書の中にある「皆が持ち寄り、分け合って」という箇所(使徒行伝 4章32節-35節)を文字通りなぞり、当時まだ隆盛を誇っていたマルクス主義と関連づけたもののようである。キリスト教マルクス主義も外来なので、日本発のオリジナルのアイデアというよりは、西洋の学者が欧米語で書いているものを直訳輸入したのだろうと思われる。
その頃から、私にはキリスト教共産主義の関係が怪しく感じられてならなかった。現に、佐藤優氏の講演会で質問したところ、肯定的なお返事だったことからも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170206)、大凡外れてはいないだろう。
もうご夫妻共に亡くなられたので書いてもいいかと思うが、今日は、長らく私が気になっていたことを記そう。
北海道旭川市三浦綾子(旧姓:堀田/ペンネーム:林田律子)氏は、1922年生まれで1999年に亡くなったプロテスタント作家である。学生の頃、書店で文庫本が積み上げてあることが多く、多感な時期に私もかなり作品を読んだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130523)。本州の太平洋側の都市で育った私が、遙か遠くの旭川という地名に親しみを覚えたのも、三浦綾子さんのおかげであり、エッセイに頻繁に現れるご主人の光世氏の献身的な姿にも、当時は珍しかったこともあり、新鮮な憧れを抱いたものである。
その光世氏が関西の日本基督教団の教会で開かれた講演会に来られた時には、大勢の人々が詰めかけ、熱心に、かつ和やかな雰囲気で、ユーモラスなお話に耳を傾けていたことを、ついこの間のように思い出す(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141031)。
確かに、共に病弱ながらも婦唱夫随のおしどり夫婦として有名だったが、病を押して精力的に次々と作品を書き続けられたことは、世の中の病を持つ多くの人々にとって大きな励ましとなったことであろう。さらに、敗戦を機に軍国主義に絶望して学校教師を辞め、まもなく罹患した結核で長期療養中、主に文通を通して知的で信仰深いキリスト者の恋人と交際したこと、その恋人が亡くなってまもなく、ちょうど身代わりのように風貌の似ている光世氏が将来の夫として現れたという話そのものが、小説以上に印象的で、キリスト教を一般に広める上でも、一つの時代を形成されていたことと思う。
だが、北海道がロシアの影響を受けやすい地理的距離にあること、共産党旧民主党勢力の強いこと、JR北海道の経営不振、夕張市財政破綻北海道拓殖銀行山一証券の倒産等々、一見、整然とした人工的で新しい街並みの背後に、何かが暗躍しているのではないかと気になっていた。
三浦綾子氏の実質的なデビュー作『氷点』は、『朝日新聞』の大阪本社の創刊85年と東京本社の75周年を記念して、1963年に公募した懸賞小説で、1000万円を獲得した作品である。1964年12月から『朝日新聞』朝刊上で『氷点』の連載が始まり、1966年に朝日新聞社より出版したところ、71万部の売り上げを記録したという。その後、映画にもなった。
当初は「雑貨屋の主婦」という肩書きで世に出たので、この大成功が、夫の光世氏の隠れた祈りの力とキリスト教の真実性をあたかも証明するかのようだった。だが、本来は読書好きで熱心な学校教師だったことを考えれば、単なる「雑貨屋の主婦」のはずがない。療養費を返済するためだったかもしれないが、そもそも、営林局に勤める夫を持ちながら、夜中に布団の中で小説を書きつつ、なぜ子ども相手に駄菓子を売る店を始めたのかも、よくわからないところではある。
昔から不思議だったのは、私が生まれる前の時点で「1000万円」という高額の懸賞がなぜ可能になったのか、ということである。1960年代半ばと言えば、まだ戦後20年程である。懸賞金の出所はどこなのか、大変に気になる。昨今、特に評判の悪い『朝日新聞』なので、余計に明らかにしていただきたい点である。
もう一点、倒産した北海道拓殖銀行に在職した著名人には、小説家の小林多喜二も含まれているという。小林多喜二については(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090325)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130514)、その母親を三浦綾子氏が作品に描いている。私は読んだことがないが、主人の古い蔵書の中にあり、既に他の方に差し上げてしまった。
三浦綾子氏が「私は共産主義のことは知らない」と断言しながら、多喜二の素朴で一心な母性愛を描く辺り、いかにもイデオロギー追求に無関心な日本的心情が表れていると感じたが、いかがなものであろうか。確か、光世氏が持ち込んだ話がきっかけで、作品化したと理解している。
今、このブログを書くために検索してみたところ、敬虔なクリスチャンとしての光世氏が、何と日本共産党の『赤旗』と関わっていたと判明した。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-02-21/12_1501.html


2002年2月21日(木)「しんぶん赤旗
「小樽で多喜二祭ひらく 没後69年 三浦光世さん講演」


 「一九二八年三月十五日」「蟹工船」などで知られる日本の代表的革命作家小林多喜二(一九〇三〜一九三三年)が特高警察によって虐殺された日から六十九年目の二十日、多喜二ゆかりの北海道小樽市で多喜二祭が行われました(同実行委員会の主催)。
 記念の夕べでは、青年による作品の朗読の後、小説「母」小林多喜二の母セキさんを描いた三浦綾子さんの夫・光世さんが「三浦綾子小林多喜二の『母』」と題して講演しました。
 光世さんは、小樽の牧師からの手紙でセキさんのことを知り、「息子を二十九歳で殺された母の苦衷を訴える小説を書いてほしい」と綾子さんに執筆を強く促したことを語り、「多喜二のお母さんを書かせたことは生涯の成功だった」と述べました。
 光世さんは、聖書の「賞賛に値するものに注目せよ」の言葉を引き、「まさに多喜二は賞賛に値した。多喜二の死を深く感じ取って、人間はいかに生きるかと考え、平和をつくりだしたい」と話を結び、聴衆に感銘を与えました。
 主催者あいさつで寺井勝夫・実行委員長は、最近の歴史を逆戻りさせる動きを批判し、幸せな国民と明るい未来を目指した多喜二の遺志を受け継ぐ決意を表明しました。
 これに先立ち、同市奥沢の小林家墓地で墓前祭を行われ、参加者一人ひとりが献花。全員でインターナショナルを合唱しました。

 
著作権日本共産党中央委員会 
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(転載終)
大阪のカトリック大司教でさえ『赤旗』紙面で語り(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160224)、憲法九条や護憲に関して、平和・反戦路線で共産党キリスト教の主流派組織が共働していたので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160713)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170427)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170428)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170512)、恐らくは善意だったのだろう故三浦光世氏の上記の行為について、こちらから責める気はない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160330)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170515)。
だが、小林多喜二の母親の人情にほだされて、背後のイデオロギー思想の危険性を見抜かず、讃美歌ではなく「インターナショナル」を共に合唱したとするならば、三浦ご夫妻が通われていた教会の説教の骨子は一体何だったのだろうかと、疑問が沸き上がってくる。