70年といえば、還暦に10年が加わる。普段はめったに見ないテレビで放映された式典の様子からうかがうと、集まっている人々の顔ぶれや表情に、深刻な厳粛さというよりは、どちらかと言えば普段着のような雰囲気を覚えた。
キャロライン・ケネディ大使も、端正な正装というよりは、顔をしかめている。安倍総理に至っては、輪をかけて苦虫をかみ潰したような難しい表情だ。特に大切な区切りの年の厳かな式典の挙行にしては、誰もが承知している矛盾が自然に滲み出ているような感覚だ。
この問題は非常に難しい。広島(および長崎)出身の方達の反核反戦主張はもっともであり、それを代々伝え続けていくことと広島(長崎)の存在そのものが、被爆国の日本にとって非常に重要な政治的メッセージとなる。一方で、国防能力を高めるためにも、核を抑止力として保持する方向に向かおうとするならば、この式典の意味および犠牲者の無念にどう対処すべきなのだろうか。
改めて、なぜ広島と長崎なのか、既に多くが問われ続け、語り継がれてきたのだろうが、無責任な発言ができない重苦しさを思う(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120504)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140806)。
昨日の購入読書リスト(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150805)に加え、手元にある日高義樹氏の『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140220)『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/comment/20131223)を読み直し、一方でメナヘム・ベギンの『反乱:反英レジスタンスの記録』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120708)や『モサド・ファイル』『モサッドが応戦す』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130308)およびジャボティンスキーの英語の本(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)なども読み返していたが、全くのところ、人間の生存本能をかけた泥試合の相克をまざまざと感じさせられるところだ。陰鬱以外の何物でもない。