ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

国防を真剣に考える

(http://www.nippon.com/ja/column/g00244/)


「日本が世界で勝ち残るために重要な2015年の日韓関係」
東郷 和彦 [2015.01.13]


・一連の動きは、当時、日韓の将来に明るい期待を抱かせた。成功は自信を生む。自信は他者に対する寛容を生む。韓国の成功は、長く待たれた日韓間の和解への下地をつくるのではないか。私もまた、当時そのように考えた。けれどもこういう楽観主義が「ナイーヴ」なものでしかなかったことに、やがて日本側は気づかされることになった。


・成功によってもたらされた自信は、韓国では全く別の形を取った。これまで解決されずにいた歴史認識に対する怒りを今度こそ爆発させ、日本側の徹底した反省をせまる要求が噴出し始めた。


・拙著『歴史認識を問い直す』(角川ワンテーマ21、2013年)
7つの「恨」


(1) 民族の屈辱感。華夷秩序で自分より低位のものから支配された記憶
(2) 裏切り。韓国の独立の保証から始めた日露戦争の勝利の5年後の韓国併合
(3) 併合前及び併合初期における弾圧
(4) 皇民化。1930年代以降、韓国人をもって日本人としようとしたこと
(5) 皇民化が一定程度成功し、日本人として対米戦争を共に戦ってしまったこと
(6) 戦後の南北の分断。なぜ韓国が分断され日本は一体性を保ったのか
(7) 朝鮮戦争。分断された民族の間での猛烈な殺し合い


・古来の歴史に遡り、日本と朝鮮半島が歴史の動乱に投げ込まれた時に先人たちがそこからいかなる協力の歴史をつくりあげ、それがどういうふうに両国にプラスになってきたかを知ることは、今の日韓関係和解へのエネルギーを引き出すことになると思う。


・日本で古墳時代大和朝廷の下で国の統一が本格化し、韓国では高句麗百済新羅が勢力を競い、これに唐が関与、結局、663年白村江で、新羅・唐の連合軍に百済・大和の連合軍が大敗した古事に遡りたい。この敗北のあと、百済の王族・貴族の一部が大和に移り住み、その血筋が天皇家の血筋に入ってきた。10年10月奈良で開催された「平城(奈良)遷都1300年記念式典」で天皇陛下は、奈良時代以前からの朝鮮半島からの渡来人の歴史に触れられ、桓武天皇の生母となった高野新笠百済の王の血をひいておられることを述べられ、多くの日本人の心に深い印象を残された。


・日本と朝鮮半島との関係は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役による朝鮮出兵によって、最悪の状況になった。徳川家康は、1600年関ヶ原で国内一の実力者となって以降、関係の正常化に腐心、早くも07年には朝鮮側からの信使を迎え関係を正常化させ、以後、朝鮮通信使と幕府との交流の歴史を開いたのである。この古事にならい、2014年6月20日朝鮮通信使ゆかりの静岡市清見にて、川勝平太静岡県知事のよびかけによる最初の日韓のお茶会が催され、2015年には更に高いレベルでこの行事を実現できないか、真剣な検討が進められている。


・今、日本が世界の中で勝ち残るには、外交・経済・文化の情報戦で勝ち残らねばならない。それには、世界の世論、特に、米欧の世論を味方につけねばならない。日韓関係改善に向けての日本側の積極的な行動こそ、間違いなく、世界の世論を日本の味方につける。日清戦争勝利のあと、世界の世論の支持がなかったが故に遼東半島を失った日本が、日露戦争では、10年の軍事力強化とともに米英の世論を味方に付けたことが、戦争全体の勝利を導いたことをもう一回思い起こしたい。


・太平洋戦争で真珠湾からミッドウェーでの敗北まで帝国陸海軍は無敵だったにもかかわらず、完敗への途を歩んだことの最大の原因が、米国の世論を味方につけて戦う力に欠けていたことにあったことを、外務省きっての戦略家、故岡崎久彦氏はつとに指摘しておられた。安倍政権を支える外交戦略家の方々には、必ずやこの歴史に学ぶ知恵があると信ずるのである。

(部分引用終)

先月、3月14日のホワイトデーに神戸市立博物館へ行って来た。この博物館へは、これで三度目だ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100507)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110523)。チューリヒ美術館展を見たかったことと、「朝日友の会」カードで一人分が無料になることもあって、出かけたのだ。先に昼食を済ませ、夕方、歯医者さんの予約が入っていた主人は先に帰るため、その後は時間を気にせず、各自の自由行動にした。
絵や彫刻を見ることは、重要だ。モネ、ゴッホゴーギャンセザンヌムンクhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080331)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090728)、マティスピカソシャガールhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090701)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120418)、カンディンスキーhttp://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140325)、クレー、デ・キリコ、ミロ、ダリなど、お馴染みの作品を重ねて見られたこと、特に、バルラハの彫刻(難民)に会場を改めて再会できたことは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071009)、うれしかった。ジャコメッティの意表を突く作品もおもしろかった。
絵画の展示会に行くと、近くでタッチを見られるのが醍醐味だが、絵というものは、少し離れた所から眺めると、その素晴らしさがよくわかると感じた。
その他にも、前回来た時には時間切れで見られなかった常設展なども見た。日本物や神戸の由来を見ることは、やはり楽しい。高校生の頃、マルクス主義の教科書で習った日本史の説明と(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140805)、現代の研究の進展に沿った展示の解説が微妙に異なる点も、貴重である。時々、角の立ったような、とんがった解説が混じっているのには、博物館員の視座や学問的立場が伺え、苦笑させられる。
例えば、明治時代の五箇条の御誓文については、「この程度だったのである」と自嘲気味。それでは、子ども達が見た場合、どういう印象を持つだろうか、という配慮が欠けている。
一つの新たな発見としては、「渡来人」の本当の意味。
小学校でも中学校でも高校でも、元来、日本古来の原始的で見てくれの悪いズングリ体型の土着の縄文人と素朴でどっしりした縄文文化に対して、朝鮮半島から、優雅でスマートな体型の先進文化を備えた「渡来人」との混血を通して、洗練された優雅な弥生人弥生文化へと移行した、という理解だったと記憶する。稲作を教えてくれたのは「渡来人」だったと習った。だから、我々日本よりも、朝鮮半島の方が進歩的で高度な文化だったという印象を、子ども達に植え付けていたのだった。
ところが、博物館の展示と解説によれば、どうも、当時の朝鮮半島の動乱による専門職難民が「渡来人」の実態だったようだ。つまり、朝鮮半島では暮らせなかったので日本列島に流れ着いた人々が、たまたま稲作の方法を知っていて、土着の縄文人とその子孫に教えた。「お前達、まだそんなものを食っているのか?」とバカにされたのかどうかはわからないが、お米を煮て食べる方法も教えると、縄文子孫は、素直に喜んで「おいしい、おいしい」と、たくさん食べた。「おい、来年からは自分達で稲を植えて米を作るんだぞ」と言われて、「はい」。
いつの間にか、縄文子孫は見よう見まねで田んぼを作り始め、せっせこともっこを担いで、あぜ道もきちんと整えて、きれいに田植えまでしていた。「お、お前達、いつの間に学んだんだ?これ、俺達の技術を盗むなよ」「盗んでないも。教えてもらっただも。その後、自分達で考えただも。だって、ご飯おいしかっただも。もっと皆で一緒にたくさん食べたいだも」とか何とか、縄文子孫もお返事を。
実は、こういうことだったのではないか。でも、師弟関係を大切にして、敬意を込めて「渡来人」と呼称して、日本人は感謝してきたのだった。学校でも、子ども達にそのように教えてきた。
但し、中国や朝鮮半島から見れば、一段下の蛮族部類のくせに、教えてやっても、日本人は、いつの間にか自分達より洗練されたものに仕上げて、幸せに満足そうに暮らしているのが、どうもいけ好かない
例えば、箸の使い方だってそうだ。長箸を縦に置くように、毒殺されないように毒入り食べ物ならば色が変化する銀箸を使うように、とあれほど教え込んだのに、その場では「はい」と素直に返事をして頭まで下げても、自分達では寸法をやや短くした木箸を使い、しかも縦ではなく横に置く。「これ、生意気な。言うことを聞け。箸は縦に置くもんじゃ」と叱ってみても、「だって、短い方が使いやすいだも。食べやすいも。銀じゃなくても、大丈夫だも」と、日本人はどうも反抗的(に見える)。
これはあくまで想像に過ぎないが、そんなところだろうか。