ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

一体いつになったら

出ました!益々ノリにノっている、池内節!

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi?fref=nf


Satoshi Ikeuchi 中田さんはイスラーム法学者として、護教論的に、相手を倒す、相手の議論の信頼性を貶めるための議論をすることがあるので、近代的な通常の意味での議論を戦わすことができないことがあります同調圧力でその場・空間での「お上」を決めて同調することで成り立つ日本型ムラ社会には、近代的な市民社会の議論が成り立ちません。逆に、神の啓示の章句を最終的な絶対的典拠として議論をするイスラーム型社会規範が貫徹する空間にも、人間の合理性に基づく議論による市民社会は成り立ちません。市民社会が弱い日本で、イスラーム法学者を交えた議論をしても、「俺はこっちが面白いと思う」という庶民の「感想」で勝敗を判断する、単なるショーとなります。日本社会では「議論を闘わす」などと気安くいうことはできないということに気づいてから初めて議論が始められます。SNSにおいて、あるいは質が低下した新聞・テレビに噴出している、西欧社会に対する根拠なき「上から目線」の日本の議論に欠けているのは、そもそも自分たちが議論が成立する市民社会などついぞ作ってこなかったんだということへの深刻な自省です。


22 February at 20:41 • Like • 164

コメント欄を見ると、ズレた提案をしている知り合いの某先生が約一名。
上記の池内氏と同じことを私が言ったら、どういう反応になるか。
「もっと上手にやればぁ?」「だってN先生は正統派ですから」「最近、対話によってイスラームも変わってきましたよ」「N先生とは仲良くしていますから」「N氏に逆らうことは厳禁です」云々。
これは、現に私が十年以上前に言われた言葉(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)。言った方は忘れていても、言われた方は覚えています!(メモ付き)

もう一点は、日本の「近代」について。
2014年4月8日にニューヨーク市でお会いして(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140512)、ペンシルヴェニア倶楽部の会場部屋の外のエレベーター前にちょうど二つ並べてあった椅子に座って二人でお喋りしていた時、ダニエル・パイプス先生は、「日本は近代化に成功している」ときっぱり仰った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140529)。すかさず、「でも、もし先生が日本語をお読みにならないのでしたら、日本観察は表面的になりませんか?」と私。
要するに、池内恵先生と同じく、厳密な意味では、私も日本の近代化達成には懐疑的なのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130310)。私の経験した学会やら研究会やらの珍妙なコメントを、このブログでも(本当は嫌なのだが)綴ってきたことからも、それは察せられよう(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070926)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071215)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100716)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130906)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141204)。
「成熟した市民社会では」と、誰も(少なくとも私は)思っていないのに、三十代辺りの博士号取得者の自称「私は学者」さんから偉そうに言われると、もの凄く違和感を覚える(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140719)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150130)。知らないことがたくさんあってキリがない私など、今も学生に戻った気分で、必死で勉強、勉強の毎日。一体いつになったら「私は専門家ですから」などと公言できる日が来るのだろうか、と思いながら日々を過ごしている。