ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

焦るばかりが能でもない?

大学に入ってから、やっと強制されない自由な時間ができたと思ったので、自発的に計画を立てて勉強し直したのは、古典の音読、世界史と日本史の高校教科書の読み直し、チャート式英語文法の本。予定表をつくって、毎日何ページと決めて、実践していた。(本当は、数学もやりたかったのだが、できなかった。)
専攻は国文学だった。せっかく詰め込み暗記中心と言われる受験勉強が終わって大学に入学したのだから、何もわざわざ高校の教科書を引っ張り出すこともなかったのに、なぜか私は、自分が納得のいくように学習することこそが本来やりたかったことだと思って、予定を黙々とこなしていた。もちろん、大学の講義はできる限り目一杯単位を取得して、各種アルバイトもしてお小遣い稼ぎと世間勉強もして、という日々。それに、思い切って本が読めることがうれしくて、次々と図書館から本を借りてノートをつくり、本屋さんで本を立ち読みする他、多少は買って読んでいた。
今から考えると、東京の華やかな女子大生の暮らしとは違って、何やら地味というのか堅実というのか、性懲りもなく何を好きこのんで、といった感じ。世の中もっと大事なことがあるでしょ、という...。
でも、自主的に選択して、自分の好きな、夢中になれるものを追求できたというのは、本当にありがたく、幸せだったと思う。それに、昨日めでたくお誕生日を迎えたパイピシュ先生が、いつでも繰り返し私を大仰に褒めてくださることが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140907)真意だとするならば(パピもパイピシュ先生も、孤立することを厭わず、付和雷同とお世辞が嫌いでぶっきらぼうな性格なので、恐らくは本意に近いだろう)、多分、自分で何が必要か、何を補うことが大切かを考え、模索しながら進んできた結果として今の私がある、ということを高所から見てくださっているからなのかもしれない。
世界史と日本史の両方を履修し、共通一次試験でも受験科目にしたことは、年号暗記が大変で頭の中がごちゃごちゃになってしまい、「受験戦略」としては成功したと言えないが、長い目で見て、今は正解だったと思える。というのは、やはり若い時期に、集中して暗記の訓練をすることが絶対に必要だったことを、この歳になるとつくづく痛感するからである。また、この二年半で、「歴史家」を称するパイピシュ先生の著述にここまで没頭できたのは、二十代前半期のマレーシア経験もさることながら、それ以前のあの詰め込み知識の基礎が根底にあるため、訳しながら頭の中で過去の記憶と照合する作業が楽しいからでもある。
(西洋の歴史の見方は、こうなんだ)(まだイデオロギーの知的戦いが西洋では続いているんだ)(日本では、私の世代までは、西洋から何でも学び吸収しつつも、自国文化が当たり前のように、誇り高くどっしり構えていた)(この絶妙なブレンドが日本の強みだったのだろうが、ここ二十年ぐらいですっかり崩れてしまった)等々。
日本、日本と声高に言う人達がいるが、以前から繰り返しているように、いくら大変でも両立ての知的武装で行かなければならないのが日本人。自文化を学び尊重し、誇りに思うのは当然のこととして、それだけで外に出て行くな、ということなのだ。その裏返しとして、当然のことながら出羽の守では誰も見向きもしないし、第一、長続きしない。
ところで最近、地方の国立大学でも英語だけで授業する講座が急増したとのことで、実に嘆かわしい。日本の大学なのだから、まずは国語でしっかりと深く鋭く幅広い思考を根底に据えた上で、初めて外国語でも知識が身につき、事の判断が的確にできるのだ。古今東西、これは誰にとっても同じだろう。外国語は、いくらできたとしても、外国語である以上、どうしても中途半端で、思考レベルが自言語よりも下がる。語彙数が限られている上、表現が自分の身にフィットしていないから、どこか浮わついてしまうのだ。いわゆる国際結婚のダブル文化で育った子弟が、発言や行動様式でどこか滑りが見られるのは、そこだ。だから、どちらの文化に所属しているのか信用できないと、表向きはともかく、根底で疑われてしまうことになる。差別と言う勿れ。これは、日本だけではない。様々な文献を調べてみたところでは、古今東西、基本はどこでも同じ。混淆文化の場は、多様性の豊かさよりも、むしろ、いかがわしさが漂うとさえ言い切っている古典的資料もあった。でも、自言語で相当レベルの思考形態と知識が身についていれば、後は内容で勝負することが外国語でも可能だ。恐らくは、パイピシュ先生が褒めてくださっているのは、その点なのだろうと思う。(あんたは米国市民でもなく、非西洋人なのに、よく僕の思考回路について来られますね)という...。
それに連動して、日本でも保守派がさすがに昨今、危機感を覚えて声を上げ始めているが、アメリカでも、保守派が力を盛り返して、1968年の学生運動以来、対抗文化の勃興によって崩壊してしまった本来の古き良きアメリカ文化を取り戻そうと、必死になっている。欧州が左傾化して弱体化したので、せめて、最後の要塞としての西洋文化の保持をアメリカで、ということなのだろう。非西洋人としての私は、実はこの傾向に賛同している。というのは、アメリカがアメリカらしくあってこそ、欧州が欧州らしくあってこそ、日本も安心して日本の道を邁進できるのであって、世界秩序の安定と繁栄が、その中で保てると考えるからだ。アジア・アフリカ地域の、特にイスラーム圏の急激な変動は著しく、楽観視できない状態だが、良い方向だと思えるならまだしも、感心しない状況であれば、声を上げて断固、堰き止める努力をすべきだ。「世の中、どうせ変わっていくのだから」と安易に考えて、要領よく時流に乗っかるばかりが能とは言えない。むしろ、それは無責任の最たるものだ。

「褒められたら、あれこれ言い訳しないで、素直に『ありがとうございます』と返事をしておいた方がいいよ」と、昨晩、主人にも言われた。「戸田奈津子さんのような英語のプロじゃないってことぐらい、わかりきっているんだからさ」と。
よく、「いくら勉強ができたって」とけなす人がいる。子ども時代に、そのように言っているおじさんやおばさん達を周囲でよく見かけた。いや、今もいる。「人間、やっぱり心が大事だよね」と。
その類例として、「いくらお金があったって」と、先進国の病弊ばかり強調する人達がいた。「貧しくても心豊かな第三世界」と殊更に主張していた人だった。これは、イスラーム社会や共産主義圏やしばらく前のアジア諸国が対象だったが、今では誰が本当のことを述べていたかは歴然としている。それに、私有財産あってこその自由。自由はあるけれど私有財産がない、というのは、どう考えてもおかしい。
そこで長年、世の中にそういう見方をする人がいるのならば、せめて刺激して攻撃されないように振る舞わなければ、と心に誓ってきた。それに、人に対してそういう見苦しいことを言って足を引っ張るのではなく、むしろ素直に、できる人や優秀な人から学びたいと思えるタイプになりたい、と痛感した。
確かに、勉強がいくらできたとしても、人間性や常識や礼節に欠けがあれば意味はないだろう。そんなことは前提条件である。でも、点取り虫というのではなく、自己中心なのではなく、本来の意味で勉強好きな人は、歳とともに視野が広がり、思考も深まり、他の分野にも関心が生まれるのが普通なので、当然のことながら、人間性の欠けも自然と補われるはずだ。それに、学校を出てからの方が人生は長く、それからが勝負なので、模範回答のない白紙の人生を自分で描きつつ、時には羅針盤で軌道修正するためにも、基本的な勉強能力ぐらいは身につけなければ、一体全体、誰がどう責任を取ってくれるのか、と思う。
第一、どの職種でも、一生涯、勉強、勉強、勉強の日々なのだ。そうでなければ、生き残っていけない。
そのため、僻んだようにそういう発言をする人の方が、考えが浅いと思っている。
...と、言い切れるようになったのも、実は最近のことだ。
やはり、焦るばかりが能でもないらしい。人生はそこまで単純にできてはいない。