ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アリエル・シャロン氏のご逝去

1月11日に85歳で逝去されたイスラエルの元首相アリエル・シャロン氏について、少し書きました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140111)。
昨晩メールをくださいましたが、1月11日、テキサスのウェイコにいらっしゃったダニエル・パイプス先生が、カナダのテレビ番組にシャロン氏追悼のため電話出演されたのを、たった今、聞いたばかりです(http://video.theloop.ca/news/watch/key-figure-of-israeli-history/3040216575001/#.UtOzE9GIqdI)。3分40秒ほどの短いものでしたが、「イスラエル史上、重要な人物であった」と簡潔に要約された後、その業績について、アラブ人に対する強硬路線とガザ撤退問題という二つの矛盾する側面を指摘されていました。
ちょうど二年前の今日、私の英語ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20120113)をパイプス先生が引用されたことが全ての始まりでした

http://www.danielpipes.org/blog/2007/09/john-esposito-and-me)。

Jan. 13, 2012 update: From a blog, Lily's Room, by Ikuko Tsunashima-Miyake, reporting on a talk in Kyoto in an entry titled "Dr. J. Esposito and Dr. D. Pipes":


On 20 December 2011, I went to listen to Prof. Dr. John L. Esposito's two lectures (altogether for three hours) under the titles 'The Role and Future of Religion in Global Politics' and 'The Role of Religion in American Politics' held at a private university in Kyoto, Japan.
Before and after that event, I have been all the time speculating about why I felt something significant seemed lacking in his talks and what went wrong in these discussions of Muslim-Christian relations reflecting on my past teaching and research experiences in Malaysia and at the university concerned.
Writings by Dr. Daniel Pipes offered me indirectly very insightful cues to ponder this issue through his official website. Actually, Dr. Pipes was critically mentioned by Prof. Esposito in his talk of the second session in Kyoto, but I thought that Prof. Esposito had failed to explain more in detail to us why he verbally attacked Dr. Pipes everywhere.


Comment: Funny, that's the same question I asked above, in the May 15, 2010 update.

(unquote)

その後、全く信じられないことに突然メール交信が始まり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120114)、その三週間後にはパイプス先生の方から邦訳を依頼されて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120514)今日に至ったわけですが、英語で読む日本人専門家が多いはずなのに、なぜウェブ上での翻訳を必要とするのかの理由をお尋ねしたところ、「例えば、ドイツ語のグーグルで『アリエル・シャロン』と入力すると、僕の論考が第一ページに掲載されて出てくる。同じようなことを日本語のグーグルでも見たい」と説明されました。
確かに、パイプス先生の何本かのシャロン批判は痛烈で、容赦なきものでした。例えば、2005年3月11日付「極左アリエル・シャロン」、2005年4月5日付「アリエル・シャロンの愚挙」、2005年11月28日付「現実逃避のアリエル・シャロン」、2007年12月27日付「アリエル・シャロンに神の介入が降りたのか?」などです。
一方、中東情勢の情報が左派に偏りがちな日本では、シャロン氏と言えば、インティファーダを誘発した強硬タカ派だというイメージだったように思います。2006年1月初旬、脳出血で昏睡状態に陥られたシャロン氏を気遣って、私がたまたまお会いした知り合いのユダヤイスラエル人の女性の先生にその旨伝えたところ、"Sharon is gone!"と即座にきっぱりとおっしゃったことを覚えています。(その先生には、後にパイプス訳文を始める前、研究室までご相談にうかがいました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130105)。)そして当時、その先生が所属する神学部では、別の日本人の教授も「カディマに期待する」という意味の内容をブログに書いていらっしゃったような記憶があります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130123)。

あれから8年、カディマ党は風前の灯火状態(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120608)、国内外の世論に押されて撤退したガザは混沌状態です(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130419)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130703)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130901)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130918)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131018)。前者は、相矛盾する綱領を奉じているために長続きしないであろうと見抜き、ガザの現状を撤退当時から予測して鋭く批判していたパイプス先生の立場は、その意味では確かに見事なものです。

では、日本の保守派論客から最近とみに批判の的となっている『朝日新聞』は、シャロン氏ご逝去について何と報じているでしょうか。

http://www.asahi.com/articles/ASG1B4WR8G1BUHBI013.html
シャロンイスラエル元首相死去 対パレスチナ強硬派」
2014年1月12日16時46分


 イスラエルアリエル・シャロン元首相が11日、入院先のテルアビブ近郊の病院で死去した。85歳だった。2006年1月に脳出血で倒れ、約8年間意識不明の状態が続いていた。01年から06年まで首相を務め、対パレスチナの強硬派として知られた。


 英委任統治下の1928年に現イスラエル中部のロシア系移民家庭に生まれた。英国からの独立を目指すユダヤ武装組織に参加。48年のイスラエル建国後の4次にわたる中東戦争すべてに参戦し、数々の戦績を上げた戦場の英雄だった。


 政治家に転身後は、強引な政治手法で「ブルドーザー」の異名を取った。国防相時代の82年に故アラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)の拠点を一掃するためレバノン侵攻を指揮。レバノン民兵によるパレスチナ難民大虐殺事件に関与したとして国際的な非難を浴びた。住宅建設相などを歴任し、国際法違反の占領地でのユダヤ人入植地拡大を推進した。


 右派リクード党首だった2000年9月には東エルサレム旧市街のイスラム教の聖地訪問を強行し、パレスチナ人による第2次インティファーダ(民衆蜂起)の引き金を引いた。


 01年に首相に選ばれてからは、テロ掃討作戦としてパレスチナ自治区へたびたび侵攻した。イスラム組織ハマス幹部らの暗殺も繰り返した。パレスチナ人のテロを抑えられない故アラファト議長を「敵」だとして軟禁下に置き、自治政府を「テロ支援体制」と認定して議長府を爆撃した。イスラエルの治安維持では譲らず、「自爆テロ犯の侵入防止」としてパレスチナ人の街や村を分断する分離壁の建設を強行し、国際社会の非難を浴びた。


 パレスチナとの和平対話を一方的に打ち切り、ガザの入植地を撤去しイスラエル軍を撤退する計画を05年8月に実行。結果的には和平の方針に沿う英断だとして国際社会からも評価された。


 同年11月、突如パレスチナとの2国家共存を目指す方針を打ち出し、リクード党を離党して中道政党カディマを結成。政界を揺るがした。その直後に倒れ、シャロン氏がパレスチナとの和平の実現にどれほどの決意と構想を持っていたのかは謎のままに終わった。


 ペレス大統領は11日、「国を愛し、国に愛された勇敢な兵士であり、勇気あるリーダーだった。難しい決断をし、実行するすべを知っていた」と死を悼んだ。
 生前のシャロン氏と確執があったネタニヤフ首相は同日、「一番勇敢な兵士であり、最も偉大な軍司令官の一人だった。彼の記憶は国民の心に永遠に残るだろう」とたたえた。
 一方、イスラム組織ハマスのバルフーム報道官は「暴君に神が与えた運命だ。手がパレスチナ人の血に染まった犯罪者が死んだ歴史的瞬間だ」と述べた。
     ◇
 シャロン氏の亡きがらは12日にエルサレムの国会に安置され、一般市民の弔問を受けた後、13日にバイデン米副大統領、ロシアのラブロフ外相ら各国要人が参列して追悼式が行われる。同日午後にイスラエル南部ネゲブのシャロン氏の自宅近くで国葬が執り行われ、先に亡くなった夫人のそばに埋葬される予定だという。(エルサレム=山尾有紀恵)

では、『朝日新聞』とは対極にあるとされる『産経新聞』はどのように報道しているでしょうか。

http://www.iza.ne.jp

2014.1.11 22:09
イスラエルシャロン元首相死去」


 【カイロ=大内清】イスラエルアリエル・シャロン元首相(85)が11日、入院先のテルアビブの病院で死去した。イスラエルのメディアが伝えた。軍人出身で対パレスチナ強硬派で知られたシャロン氏は、首相在任中に一方的なパレスチナ分離政策を推進。任期途中の2006年1月に脳出血で倒れて以来、昏(こん)睡(すい)状態が続いていた。


 英国委任統治下のパレスチナで生まれたシャロン氏は14歳でイスラエル国防軍の前身であるハガナに入隊、1948年の独立戦争(第1次中東戦争)に参加して以降、軍の中枢を歩んだ。73年の第4次中東戦争では、イスラエルが占領していたシナイ半島に急襲したエジプト軍に対し、スエズ運河を逆渡河して撃破する作戦を指揮。イスラエル軍の「英雄」となり、同年、右派リクード党の結成に参画し国会議員に転身した。国防相などを務めた後の2001年、首相に選ばれた。


http://www.iza.ne.jp
2014.1.12 00:52

シャロン元首相死去 華麗な軍歴につきまとう悪名」


 【カイロ=大内清】イスラエルシャロン元首相には、華麗な軍歴とともに、国防相在任中だった1982年のレバノン侵攻の際に起きたパレスチナ難民虐殺事件などをめぐる悪名もつきまとった。


 英国委任統治下のパレスチナで生まれたシャロン氏は14歳でイスラエル国防軍の前身であるハガナに入隊し、48年の独立戦争(第1次中東戦争)にも参加。73年の第4次中東戦争では、イスラエルが占領していたシナイ半島を急襲したエジプト軍に対し、スエズ運河を逆渡河して撃破する作戦を指揮し、イスラエルの「英雄」となった。


 政界進出後の82年、イスラエルが、パレスチナ解放機構(PLO)が拠点としていたレバノンに侵攻した際には国防相として戦争を指導。当時のベギン首相の了承なしでの行動など独断専行も目立ったとされる。


 この戦争では、同国の首都ベイルートにあるサブラ・シャティーラのパレスチナ難民キャンプをイスラエル軍が包囲する中、親イスラエルキリスト教民兵による難民虐殺事件が起き、シャロン氏は責任を問われ国防相を辞任。パレスチナ人らの間では「殺戮(さつりく)者」などとも呼ばれた。

(引用終)