ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『河豚計画』だって....!

北海道旅行に関しては(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130503)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130504)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130505旭川の見聞が残っていますが、取り急ぎおとといのブログの続きを。
ダニエル・パイプス先生の著作(1997年)に紹介されていた『河豚計画』なる奇妙な日本とユダヤ人の関係の本が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130508)、たった今届きましたので、以下のブログ引用を2件させていただきます。昨日夕方遅くに注文したのに、今朝9時半過ぎには到着するのです。深夜労働と宅急便のお仕事に従事されている人々に感謝!

https://twitter.com/ituna4011
Lily2 ‏@ituna4011 3m

"The Fugu Plan: The Untold Story of the Japanese and the Jews During World War ..." (http://www.amazon.com/dp/9652293296/ref=cm_sw_r_tw_dp_YseJrb01JT0WX …) arrived here just now. So fast!

それにしても、私って随分世間知らずですね。ユダヤ人が「取り扱い要注意」と考えられていたなんて、これまでの数十年の人生で一度も知らなかったのですから...。鈍感というのか恵まれ過ぎていたというのか。これによって、ダニエル・パイプス先生の神経質なまでの精力的な文筆活動の背景に対して、少しは感覚的にちょっと近づけたかな、という...。

1.http://blog.goo.ne.jp/luca401/e/252cab6dbd0d47924ea3cb604593c200

「1930年 日本にユダヤ人を移住させるという「河豚」計画があった。河豚計画 軍部 電通


日本の闇 / 2013-03-24 18:10:27


以下抜粋


河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチス党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。


「河豚計画」の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。


のちに、日本通として知られるアメリカ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画(The Fugu Plan)』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。


河豚計画は、「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長い表題の付いた計画書である。その中で計画者らは豊富な選択肢を提示した。その選択肢には、ユダヤ人の移住及び投資獲得の方法に関する詳細な計画が含まれていた。1939年6月に編さんされたこの計画書は、同年7月に「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題した上で政府に提出され、承認を受けた。


当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、また、アメリカは、満州国建国などで日本との外交的対立が先鋭化してきていた。そこで同計画書において提示されたのは、世界のユダヤ社会とアメリカとの双方の関心を惹く方法であった。すなわち同計画書には、


アメリカへの代表団を派遣すること


アメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教神道との類似点をラビに紹介すること、および、ユダヤ人とユダヤ教を日本人に紹介すること
などが盛り込まれていた。


元来この計画は、日本政府のうちでも少数の者、及び軍当局(彼らは満州国に住民が定住する必要性を感じ、また同地に対する日本の産業及びインフラの構築を支援することが可能であった)の考えであった。この一派の主な顔触れは、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重の両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥であった。


だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満州の都市ハルビンユダヤ人ピアニストのシモン・カスペ(Simon Kaspe)の誘拐・殺害事件が発生したのである。この時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。


シモンは、ロシア出身のユダヤ人大富豪のヨゼフ・カスペ(Josef Kaspe)の息子で、たまたまハルビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。のちに日本人の一味が逮捕されたが、関東軍は、裁判で有罪の判決を下した中国人判事を逮捕した。日本人判事による再審の結果、被告らには10年から15年の不定期刑が下されたが、翌週には特赦により釈放されたのである。


もはや日本の軍部を信頼できなくなったハルビン在住のユダヤ人(当時既にかなりの人数が在住していた)は、事件の2年後には大半が市外に逃れた。彼らの多くは遠く上海へ逃れ、出会った者達に恐怖の体験を語った。軌道に乗ると思われた計画は、大きな壁に直面した。


以後数年間、計画者だけでなく、ユダヤ社会のメンバーらも含めた会合が頻繁に行われた。しかし計画は、如何なる公的・組織的手段によっても、軌道に乗らなかった。1939年には、ユダヤ共同体による支援の分散を懸念した上海のユダヤ人が、上海へのユダヤ難民流入をこれ以上許可しないよう要求した。


極東ユダヤ人会議議長となっていたカウフマンは記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近で世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする強い見解を示した(アメリカが日本に対して行った通商停止措置に違背するため)。1940年には、在米ユダヤ人の有力者との間にパイプを持つ田村光三ユダヤ系学生の多いMIT卒で東洋製缶ニューヨーク出張所職員)が移住構想を進言したが、にべもなく断られている。


1939年に、ソ連がドイツと独ソ不可侵条約を締結したことにより、ヨーロッパのユダヤ人をソ連経由で日本へ移送する計画に暗雲が立ちこめた。同年9月、第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まった。同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされ、その一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、翌1940年7月から8月にかけ、ソ連リトアニアを含むバルト三国を次々に併合した。これによりヨーロッパのユダヤ人が脱出する可能性はほぼ断たれた。


9月には、日本政府は日独伊三国防共協定をさらに発展させ、ドイツとイタリアと日独伊三国軍事同盟を締結した。その翌日、東条は安江の大連特務機関長職を剥奪し予備役に編入した。また、同年12月の開催を予定していた第4回極東ユダヤ人大会を中止させた。


1941年には、日米間の和平交渉が決裂、12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する。これにより、アメリカのユダヤ資本導入の道は閉ざされた。こうした内外の情勢の変化によって本計画は実質的に破綻した。


太平洋戦争開戦後、日本は上海全域を占領した。ユダヤアメリカ人からの資金援助及び全ての連絡は、英米対敵通商法(Anglo-American Trading with the Enemy Act)によって事実上途絶した。上海におけるユダヤ難民への連絡と援助に関するアメリ財務省の規制は、法的には相当緩いものであったものの、アメリカのユダヤ人組織は強い愛国心を示し、反逆活動の切っ掛けを与えぬよう主張した。


1942年に日本政府は、既に有名無実となっていた支援を完全に中止して、五相会議決定「猶太人対策要綱」を公式に無効にした。


以上


河豚計画と電通


電通は世界最大の広告会社。1901年という、まさに20世紀の初めの年に誕生した株式会社 電通
1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画河豚計画(ふぐけいかく)。実現性が無くなり頓挫したが、そのときの人脈が、電通につながる。戦前、電通は里見機関や軍部とつながり、軍の特殊機関として機能していた。


現在、電通が広告斡旋を独占支配し、メディアを支配している。

2.http://ckphoto.exblog.jp/5962618

杉原千畝氏と「ふぐ計画」とニッポンと。
10月になると思い出すこと。


「The Fugu Plan(ふぐ計画)」 という一冊の英語の本が手元にあります。第二次世界大戦ユダヤ人とニッポンのお話し。ユダヤ人とニッポン、何の所縁もなさそうでいて、実はある時期に1万5千人ほどのユダヤの人たちが日本にやって来たことがありました。


第二次世界大戦の最中の1940年のこと。ヨーロッパ中でどんどん迫り来るナチの手から逃げるために、ポーランドから多くのユダヤの人たちがバルト海沿岸の小国リトアニアへと命からがら逃れてゆきました。でもそこから先はまったくの八方塞で、どの国の大使館も彼らへ訴えに手を差し伸べませんでした。 しかし、当時のリトアニア日本領事館代理の杉原千畝(ちうね)氏(のちにアメリカで彼の話は映画にもなっていて、イスラエルで名誉賞を与えられた唯一の日本人)は、ドイツとの仲を気にかけてヴィザ発効を認めないとする日本外務省の命令にそむいてまでも、

「人としてするべきこと」

と、ユダヤの人たちに日本通過ヴィザを日夜必死で発行し続けたといわれています。毎日領事館の門の前で何時間も立ちじっと領事の発行するヴィザを待ち続けた数多くのユダヤの人々の命を救いました。


一刻を争う状況の中で、彼らは杉原領事の発行したヴィザを握り締めて、絶望と希望の間でシベリヤを横断し、敦賀港へ到着のち、そこからユダヤ教に改宗していたアブラハム小辻教授やその他の方々の助けによって、神戸または横浜へと長い旅を続けました。


ある記録では1940年10月6日から翌年1941年6月までの10ヶ月間で1万5千人のユダヤの人々が日本に渡ったと記されています。彼らは日本に数ヶ月滞在したのち上海に渡り、そこから安住の地を求めてアメリカや当時パレスチナと呼ばれていた土地へと渡って行きました。


神戸では写真家の安井仲治氏や漫画家・手塚治虫氏の父・手塚粲氏が、貴重にも当時の神戸に滞在するユダヤの人々の様子を何枚かの写真に収めています。まだ幼かった手塚治虫氏にはどうやら父親の粲氏とユダヤの人々の交流が心に残ったのでしょう。のちの彼の漫画にはユダヤの人がぴょこんと出てきたり、晩年に描かれた大作「アドルフに告ぐ」も当時の神戸に住むドイツ人とユダヤ人の二人のアドルフともう一人のアドルフ、ヒトラーを取り巻く物語でした。


安井仲治氏によって撮られた神戸での一枚には帽子をかぶった頬のこけた男性が窓の外を不安げに眺めています。当時の神戸や横浜のニッポンの住人は、この見慣れぬ異邦人の彼らの滞在をどう受け止めていたのでしょうか。そして遠いヨーロッパから来た彼らの流浪の心境はいかなるものだったのでしょうか。家族と祖国とを失い、今まで耳にしたこともないような言葉と、何もかもが慣れないアジアの異国の街で、その先どうなるかもわからぬ不安な滞在の日々。彼らに当時の神戸の町は、そしてニッポンはどのように写っていたのでしょう。


エルサレムのある友人の家族は、実際にこの経路でアメリカへ渡り、ホロコーストを生き延びて、のちにエルサレムへとへ移住してきました。彼らからその当時のことを伺い、その時に頂いたのがこの「Fugu Plan」という本。


毎年10月になると、このことを思い出します。
 

追記−「フグ計画」:要点だけ説明すると、河豚という魚は強い毒を持っていて、それをうまく取り除けばとても美味で高価なもの。でも一歩間違えれば人をも殺してしまうパワーもある。日本人は未知の存在のユダヤ人をフグに例えて、政治的にも民族としても慎重に扱う事にした。とまあ、こんなことです。

(引用終)