ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

北海道の旅日記から

今回訪れたのは、実は三箇所のみ。留寿都旭川、札幌。
千歳空港で気づいたのは、ロシア語表記もあること。関西や名古屋では、ここ十数年来、当然のように多言語表記で、ハングル文字と簡体字(あるいは繁体字)と英語が並べてあるのが普通だが、さすがは北海道、キリル文字も堂々と表記されていたのだ。目にした途端、最近前進しつつある北方領土問題に対して、にわかに地理的な実感が沸いてきて、(ここは日本語の通じるロシア領ではありません!)というナショナリスティックな同胞感覚が…。
冷戦期には、一歩間違えたら、北海道および東北一帯がソ連領の共産圏に組み込まれる可能性もあったらしいと聞いたことがあるが、これがまさにそれ。いわば、日本列島が現在の朝鮮半島のようになるということだ。新潟でも、ロシア語学習が一部で盛んだとも過去にどこかで読んだことがある。ロシア文学やロシアのクラシック音楽やバレエなどは素晴らしいと思うが、やはり取捨選択の慧眼を先人に感謝。
実はこれ、非常に大事な視点で、この度びっくり仰天させられたのが、札幌から旭川へ向かうJRの座席ポケットにあった車内誌(No.303, 5月号)。「文化なんて札幌や旭川に任せておけばいい」(p.6)という発言が、明治の開拓期ならともかく、この平成25年の今も、平気で飛び出してきたという土地柄だと知ったからだ。え〜!故レナード・バーンスタインが札幌の若者向け楽団の指揮指導をしに、わざわざ来られたというのに?
「明治以前の北海道」と題するサイト(http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/01.html)には、冒頭からいきなり以下の文章が登場する。

北海道の歴史をここに住んだ人々の生活史とすれば、それは日本列島と同じ程度の古さにさかのぼることができるでしょう。しかし、東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵するこの広大な島の歴史が内地と著しく異なる点は、他の地域が古くから農耕文化に染まっていったのに対して、北海道はつい近年まで縄文時代とさほど変わらぬ漁猟生活が営まれていたことでしょう。」

これをどのように解釈すべきか、しばらく考えてみようと思い、ペンディングにしてあるのだが、それもこれも、「先進国」と自称するこの日本国内で、まだ上記のようなことをおっしゃる方が存在するという現象自体、考察に値すると思うのだ。
しばらく前に、NHKテレビが、病院に焦点を当てて夕張市の経済破綻状況を報道していたが、左派傾向の強いNHKのこと、当然のように行政や病院経営者側の責任を問う路線で番組が構成されていた。しかし、私が今回思うに、一方だけが悪いというよりも、やはり地元の一人一人の意識の持ち方でもあろうかと。
類似の経験は数年前にもある。外国人教授も招いての会合に招待されたので、遅刻しないように京都でタクシーに乗って新島会館へ向かおうとしたら、運転手さんが丁重な方で、「いやぁ、新島先生のおかげで京都も助かりましたわ」と。もちろん、言葉のアクセントから私が京都人ではないことを承知だからこそ成立した会話。「いやぁねぇ、生粋の京都生まれの人間が京都を京都たらしめたのではなくて、大抵、よその土地から移って来られた人達が発展させたんですわ」と。
閑話休題
留寿都というのは、カタカナ表記もあるようだが、実は我々には似合わぬ「ルスツリゾート・ホテル」で一泊。「北海道虻田郡留寿都村にある通年滞在型のリゾートである。リゾートとしての規模は北海道最大規模」という説明付。遊園地みたいなホテルだったが、ゴテゴテしたメリーゴーラウンドには「ダラス」とあり、思わず納得。
とにかく5月初旬とは思えないほど寒かったということ。この時期の北海道としても、珍しいほどの寒さだったそうだが、それにしても、雪がうず高く積もったり、かき上げたりした道路を長距離バスで通るのは、何だか季節感が狂いそう…。というのが、留寿都の印象。
なぜ突然、留寿都なのかと言えば、本来はサミットのあった洞爺湖へ行こうという話が持ち上がっていたからだった。ところが、3月ならともかく、冬用のジャンパーを着ても5月にしては場違いなほど寒かったので、急遽、洞爺湖散策は取り止め。代わりに旭川へ行くことにしたのだ。

「ようていポテトチップス」というものを、留寿都から札幌までの長距離バスの間の休憩所で買ってみた。普通の塩味ポテトチップスを袋詰めしたものなのだが、さすがは北海道の馬鈴薯は違うんですよ、という触れ込み。袋の背面には、細かな北海道説明があって、そこが気に入った。中身を空にして袋を捨てる前に、ここでせっかくの解説を。

羊蹄山洞爺湖登別温泉支笏湖、定山渓を含む支笏洞爺国立公園の中にそびえる独立峰の標高1898mで北海道の西南部随一の高さを誇り、日本の百名山のひとつにもなっています。整った円錐形をしたコニーデ型の成層火山蝦夷富士とも称され親しまれています。」

そういえば、マレーシアで勤務していた頃、登別温泉出身だという同僚(と言っても私の後輩に当たる年に入って来られた年上の先輩格の女性)がいたなぁ、と懐かしく思い出した。英語がとても流暢に話せる器用なタイプの方だった。

登山にはそれぞれに特色あるコースがあり、
倶知安コース(所要時間:往/5時間00分  復/3時間30分)
真狩コース(所要時間:往/5時間00分  復/3時間30分)
喜茂別コース(所要時間:往/4時間40分  復/3時間10分)
京極コース(所要時間:往/4時間30分  復/3時間00分)
など出発地や登頂時間に合わせて挑むことが出来ます
。(以下省略)」

生成は約2万8千年前の洪積世末期〜沖積世初期頃と考えられており、溶岩によって本体が形成され現在の大火口は3回目の噴火口です。他にもいくつかの火口があり側噴火で生成された北火口の北山、爆裂火口に水がたまったことにより生成された半月湖、星ヶ池、南コブ、南火口溶岩流など6個の寄生火山があります。」

名前の由来はアイヌ語のマチネシリ(雌岳)、マッカリヌプリなどと言われていたそうですが、江戸時代には和名として日本書紀に書き残されていると言われている後方羊蹄山(シリベシ山)と呼ばれました。しかしその後マッカリベツ山、マッカリヌプリ、マクカリヌプリとも呼ばれたこともありましたが読みづらさと周囲にシリベツダケがあったことから、後方羊蹄山を「コウホウヨウテイザン」とそのままの音で呼ぶようになり、その後ヨウテイザンと略され今の呼び名の羊蹄山が一般的となりました。」

原始の自然を残す羊蹄山は標高によって植生が異なり登山口付近(350m)はミズナラやオニグルミなどの低山性広葉樹林帯に大使、1700m以高ではハイマツや高山植物が多く生育するという植生垂直分布になっています。他にも様々な動植物が暮らしており、美しい花を咲かせるイワウメ、イワギキョウ、コケモモ、キバナシャクナゲや、キタキツネやエゾリス、エゾユキウサギなどの動物や、カワセミクマゲラなどの野鳥なども多数確認されています。」

羊蹄山の周囲には沢山の自然を活かした公園や全国的に有名なスキー場、芸術を気軽に楽しめる美術館、美味しい数々の農作物や乳製品などが多く一年を通し楽しむ事が出来ます。」
「レルヒ記念公園:日本に初めてスキーを伝えたオーストリア人レルヒを偲んで造られた公園で、一本杖を持ち軍服巣方のレルヒ像が印象的です。
半月湖畔自然公園:羊蹄山の西側山麓に位置し、三日月形の湖面や周囲の四季折々の美しい木々なども楽しめる他、倶知安コースの登山口にもなっており...
(以下省略)」

もう一つ、同じお店で買ったお菓子は「ダイスミルク」という、バターと生クリームを砂糖で固めたような素朴な固形物。キャンディーなのかと思ったが、案外に溶けやすかった。また、それほど甘くはなかったのだが、カロリーは高いんだろうな、という...。これは美瑛町農業協同組合が作っているもの。
これにて、旅日記の一部紹介は終わり!