ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

呆れた放送大学の某教授発言

先程、たまたま主人がつけていた放送大学テレビで、日本人男性「教授」が、「ジャバリはイスラエルハマスの仲介役をしていた人だったのだから、イスラエルは今回、誤った判断で空爆死させたのではないか」と、とんでもないトンチンカンな発言をしていました。お願いですから、これ以上、日本国民の知的レベルを下げないでくださいませんか?聞いている方が、日本国民の端くれとして非常に恥ずかしいです。体を張って長年、地道に自分の取材を続けた結果ならばともかく、「選挙が近いから、ネタニヤフが選挙対策として空爆を激しくしているのではないか」とも言っていました。ベンヤミン・ネタニヤフ氏のお兄様の故ヨナタン氏のことをご存じですか?
主人が一言。「イスラエルがそこまで馬鹿だとは思わんがな」。


メムリ」(http://memri.jp
Special Dispatch Series No 5052 Nov/18/2012

ファタハからカッサム旅団への転身―ハマス軍事部門責任者の死―」


アル・ジャバリ(Ahmad Al-Jábari)は、1960年ガザのアル・シュジャイヤ地区に生まれた。家はヘブロン出身の家庭である。青年時代はファタハに所属し、同組織での活動の廉で13年間(1982−1995)刑に服した。刑務所内で開かれたハマス指導者会議の後、イデオロギーの転向をはかり、ハマスに加わった。釈放後同組織の囚人問題担当として活動、後にハマスがつくった政党Al-Khalas Al-Islamiの幹部になった。


1998年、軍事活動に関与したとしてパレスチナ自治政府PA)に逮捕され、再び2年間刑務所暮しを経験した。獄中で親しくなったのがハマスの爆薬専門家アルゴール('Adnan Al-Ghoul)である。カッサム旅団(ハマスの軍事部門)の創設者シェハデ(Saleh Shehade)が2002年にイスラエルによって殺害され、2003年には旅団の司令官ディフ(Muhammad Deif)がイスラエル側の狙い撃ち攻撃で重傷を負った後、アル・ジャバリはカッサム旅団の司令官代理(名目上は副司令官)となった。



ハマスの軍事組織を築きあげた男


ハマスに対するアル・ジャバリの主たる貢献は、その軍事部門を装備良好な正規部隊に育てあげたことであるハマスのスポークスマンであるバルホウム(Fawzi Barhoum)は、「ウェストバンクで本物の軍事インフラの基礎を築いたのが、本人である。もっともウェストバンクではPAがこの抵抗機構を抹殺してしまったが」と述べている※2。アル・ジャバリは死亡前の最後のインタビューでエジプトのテレビに「ハマスについては大丈夫だ。私が強力な軍隊を築きあげたのだ。そのうえアッラーのお許しで、私はシャリット取引(Wafa Al-Ahrar、イスラエルのシャリット伍長と囚人1027人との交換)をやりとげた」と語っている※3。


ハマス政治指導部での役割


アル・ジャバリはハマスの主として軍事部門で活動していたが、次第に政治指導部でも頭角を現してきた。ガザの実力者とみなされ、ハマスの政治局長マシァル(同組織の政治担当、ダマスカスで指揮ととっていたが、辞任を表明、現在カタールに移動している)とは緊密な関係にあり、ガザの政治指導部幹部達の頭越しに連絡をとりあっていた。最近実施されたハマス選挙で、ガザの政治局員に選ばれた。カッサム旅団の部員、シャリット取引で戻ってきた囚人などジャバリの息のかかった人々も政治局入りをしており、ハマス運動における彼の人気と影響力がみてとれる。


イスラエル兵の拉致を続行する―シャリット取引を主導した男の作戦


アル・ジャバリは、公衆の面前にでたり声明をだすことは滅多になかった。ギラッド・シャリットの拉致及び監禁関与、交換をめぐるイスラエル側との交渉で、知られていた。シャリットをラファ検問所までエスコートした時、テレビにその姿を短時間さらしている。



シャリットをラファ検問所にエスコートするアル・ジャバリ※4。


この捕虜交換では、拉致されたイスラエル兵1人(シャリット伍長)と囚人1027人が交換されたので、アル・ジャバリは一躍世界に知られる人物となった。後に交換の日は私の人生で至福の時であったと語り、「被占領地(イスラエル)の刑務所にパレスチナ人囚兵が存在する限りイスラエル兵の拉致を続ける」と公約した※5。



ヨルダン川から地中海沿岸までの全パレスチナ武力解放を主張


2005年、ロイター通信のインタビューで、アル・ジャバリは「ジハードと抵抗が郷土解放の唯一の方法である。交渉や取引は無意味である…究極においてアッラーが我々に勝利を与えて下さる」と言った※6。2010年のラマダンの終りにあたって発表された書簡では、「占領軍は永遠にガザから追放された。これも信仰の力、殉教者、武器、ロケット、トンネルのおかげである」と語り、「敵シオニストとの交渉」を非難し、「カッサム旅団は、(ヨルダン)川から(地中)海までのパレスチナそしてその首都エルサレムイスラムの地であることを肝に銘じ、その解放をめざす」と強調している※7。


殉教者として死ぬ覚悟


アル・ジャバリは用心深く、慎重を期した行動で知られていた。それが何故、狙い撃ちされ易い車での移動を選んだのか、はっきりしないハマス幹部のハマッド(Ghazi Hamad)は、「アル・ジャバリは、占領に対するレジスタンスに命を捧げていた。武力抵抗のみが解放をもたらす唯一の方法と確信していたのである。彼は移動に極めて慎重で、(公共の)集会や行事に出ないよう心掛けていた」と言っている※18。副官は、匿名で「本人は殉教道についてよく語っていた。イスラエル人達が、シャリット取引について決着をつけようと待構えているのを感じていた」と述べている※9。


MEMRI TVが伝えるカッサム旅団の訓練とジャバリインタビュー


2006年7月4日、アルジャジーラTVがハマスのカッサム旅団について特集を放映した。アル・ジャバリとのインタビューも含まれている。次のMEMRI TVを参照され度。


http://www.memritv.org/clip/en/1191.htm
※1 2012年11月15日付Al-Quds(エルサレム
※2 2012年11月14日付Elaph.com
※3 2012年11月15日付Elwattannews.com
※4 2011年10月29日付Al-watanvoice.com
※5 2012年10月22日付Amad.ps
※6 2012年11月15日付Al-Quds
※7 22010年9月14日付Algassam.ps
※8 2012年11月14日付Elaph.com
※9 2012年11月15日付Al-Quds

(引用終)