ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

首尾一貫性と曖昧さの間で

涼しくなって集中力が続くようになり、目が疲れない限りは、ひたすらここ10日間、黙々と訳文に励んでいる日々なのですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120916)、相変わらず、倦まず弛まず仕事を続けるダニエル・パイプス先生の胆力は、実にたくましい限り!
今朝も、メールを開いてみたら、パイプス先生にとって天敵の米国内の(イスラーム主義だとパイプス先生が認定している)ムスリム団体が発行した65ページの冊子に、「擬似イスラーム専門家」として、お仲間達と一緒に自分の名前が列挙されているが、それには不服だ、みたいな整った檄文(というと形容矛盾)が綴られていました。私にとっては、(まぁよくやるよねぇ。自称「白髪頭」とはいえ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)、アメリカ人って気が若いのかしら?)と、呆れるやら笑えるやら...。
テニュアをせっかくもらった(らしいのに、1980年代半ばに、望んでいた場所からお呼びがかからなかかったのか、嫌になって自分から叩き付けて出てきてしまったという(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120515)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917))アカデミアに対する恨み辛みがあるのか、もう60代になって数年経つというのに、まだ20代の頃の話まで持ち出して、皮肉たっぷりに逐一訂正を加えているのです。
私がここ9ヶ月以上密かに察するに、本音のところでは、堅苦しい論文をたくさん書いて学者風に振る舞いたく、そのように見てもらいたいのでしょうが、自分一人だけで言論活動を進めて行くにはどこか無理があるのか、立ち上げた組織がある程度固まった以上は財政面の維持確保をという理由なのか、やはり基本的に考えの合うお仲間運動家達(?)との協力が必要なようで、一緒に名前が挙がっている20数名のうちの何人かを、非常にかばっていらっしゃいます。また、れっきとした専門家なのに名前が挙がっていない、別の意味でのお仲間先生達のことも書かれています。(その先生達は、確かにちゃんとした大学の先生!)
その冊子そのものが、意図として恣意的な面が否めないので、お気持ちはよくわかりますが、それにしても、何となく笑えて(失礼!)仕方がありませんでした。
列挙された名前の中では、自分だけが唯一、世界的に学問水準が上位に位置している大学で博士号を有しているという意味では、確かに「スペシャリスト」ではあるが、コーランを学んだわけではなく、ムスリムの歴史と政治を研究してきたのだ、しかも、フィラデルフィアに住むようになってからは、米国内のムスリム動向を毎日フィールドワークしている、1970年代には、ニジェール、マリ、エジプト、チュニジア、トルコを旅行したり、3年プラス居住したりして、多くを学んだが、旅行自体はプライベートなものだったという、日本基準ではちょっと苦しい言い訳めいた弁解が添えられていました。
2001年9月11日以降つい最近まで、米国内はもちろん、カナダやオーストラリアなどのテレビでも、「過激派イスラームの専門家」「イスラーム・テロの専門家」「中東のイスラーム情勢に最も経験豊かな中東フォーラム所長」みたいに肩書きがつけられていて、そこそこ満足そうな表情で出演されていませんでしたっけ?それに、イスラエルでも、ベギン首相ゆかりのセンターで講演するに際して、「私はハーヴァード大学からイスラーム史で博士号を授与されていて....」と自己紹介されていませんでしたっけ?それって、今年の3月上旬でしたよ。
さまざまなインタビューでも、テレビ出演の案内でも、シカゴ大学ハーヴァード大学や海軍士官大学で教えていたとか(本当は、著作(1997年)によればペンシルヴェニア大学でも教鞭を執っていたらしいのに、何か個人的に言いたくないことがあるようで、それは必ずといってよいほど伏されています)。今でも、スタンフォード大学のフーバー研究所に所属があることを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120620)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120804)、誇らしげに名乗っていらっしゃいませんでしたっけ?(ユーリ後注:2012年8月31日付でフーバー研究所は止められたようです。2012年10月31日記)その昔は、ペンタゴンでも勤務していたなどと....。
自宅にあるインターネットには出ていない文献資料で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100422)、20代から30代の頃、パイプス先生がどこから奨学金をもらって、どの国に居住していたかは知っています。基本的に嘘は全くありませんが、訳文を作っている私から見ると、インタビュー記者の力量というのか問題でもありますが、ウェブサイト上は、少しずつ情報が違っていたりして、いささか悩ましいところではあります。
ニジェールやマリとはいえ、サハラ砂漠に魅せられたのは、確か、大学一年の時じゃなかったでしょうかね?ベルベル人の言葉にも魅了された、とか。モロッコレバノンやシリアなどへは旅行されなかったんでしょうか?どこかで、最初はレバノンに住もうかと思ったが、結局カイロにした、みたいな述懐も読んだ記憶があるのですが。
と思っていたら、実はおとといには、ニューヨークのスタジオから、おなじみのカナダのテレビにも出演したことが判明。何やら1983年に物議を醸した、米国のある国連代表まで持ち出して、過激派ムスリム代表の国連出席の話や、イランのアフマディネジャド大統領がニューヨークに来ているが宿泊ホテルはどうだったかという話と絡めて、10数分ぐらい喋っていました。
私が感じるには、レーガン政権の1980年代って、パイプス家にとっては父子共に、非常に輝かしく誇り高い時代だったんだろうな、と。イランの核問題を討議するであろう国連のトピックで、どうして今頃、ソ連による大韓航空機墜落事件にまつわるエピソード(ソ連の飛行機はアメリカの国土に着陸禁止)が出てくるのか、いささか疑問なのですが。
もっとも、訳文を作っていればよく理解はできます。現代のイスラーム動向をイデオロギーで考えているのです。それが、あの先生の切り口というのか売り物。ファシズムコミュニズムとイスラミズムは全体主義思考で、アメリカの国是には向かない、ということです。ただ、国連ビルがアメリカ国内に設置されているので、それはどうしたものか、という連想なのだと思いますが。パイプス先生ったら、このエピソードが楽しくて仕方がないらしく、自分で喋りながら笑っていました。(それにしても、誰が思いついたエピソードなんでしょうね?ウィキペディアにちゃんと載っていたので、私でも言われれば、あ、あれねって感じなんですが。)

まぁ、日本社会とは違って、もっと流動性の激しい、生目の馬を抜くような日々なんでしょうから、使える肩書きは何でも使って、自分を自分で保証していかないと人前に出られないのかもしれませんね、アメリカって。
それにしても、あれほど、他人の論旨矛盾を突くのが得意で、ご自身は分析力と論旨の首尾一貫性を誇っていらしたはずなのに、我が身の経歴と専門分野のことになると、強気で相手に反論しているつもりが、どこか曖昧になってくるところが、パイプス先生のパイピシュ先生たる所以で、やっぱり「かわいいおじさま先生!」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120508)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120528)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120607)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120627)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120804)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120812)です。