ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ノーム・チョムスキーについて

Lily2‏@ituna4011(https://twitter.com/#!/ituna4011
9・11―アメリカに報復する資格はない!ノーム・チョムスキー(文春文庫)(http://www.amazon.co.jp/dp/4167651289/ref=cm_sw_r_tw_dp_ychxpb145NP2J) 院生時代から苦手だった生成文法チョムスキー。れっきとした理由あり。この本も、苦手中の苦手。でも、自分の立場の明確化のために、中古(1円)で買いました。
←(後注:「生成文法」に関するエピソードは、2008年12月19日・2009年3月27日付「ユーリの部屋」参照)
2h Lily2‏@ituna4011
チョムスキーがなぜ苦手かという理由。生成文法の分析を日本語に適用することの是非そのものが、前提として何も検討されていなかった点。1990年代初頭に、マレー語でもやっている人がいたが、果たしてどこまで可能なのか。そして、院生時代に論文を読まされて気づいたのは、スペイン語の例文。
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その頃、既に私はスペイン語をラジオで独習していたが、当時は今よりもっとマトモな内容だったと思う。それはともかくとして、スペイン語の例文分析で、チョムスキーは間違っていたのだ。動詞が活用するために主語が不要なスペイン語の特徴を、まるで無視した分析だった。これが躓きの元だった。
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人工知能やコンピュータ言語のためのアイデアとしては、チョムスキーは斬新であり、その意味では貢献者だ。しかし、名古屋大学の大学院で突然、ロシア語の専門家から手渡されて読まされたチョムスキー論文は、単にこねくり回しているかのような、私には不向きの内容だった。プラトンなんかも出てきた。
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担当者は丹辺先生。人当たりはよい先生で、私にもお年賀状のお返事をくださったが、肝心の授業は今一つ。チョムスキーの分析そのものの前提について私が質問したら、年上のクラスメートから睨まれた。(変な質問するんじゃないの!)とでも言うかのように。でも、大学の勉強って、疑問が大事では?
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丹辺先生は、「この授業は英文和訳をしているんじゃないんだから」と、何度もおっしゃったが、英語が苦手らしい中国や韓国の留学生も混じっていたので、なかなか思うように授業進行ができなかったように記憶している。そもそも、プラトンなんて読んでもいないであろう院生に、どうしてチョムスキー
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丹辺先生は、ある日、このようにつぶやかれた。「チョムスキーは最近、もう言語学の論文を書かなくなって、政治的発言ばかりしている」と。それを聞いて、すぐに私は断念したのだ。(やっぱり私には向かない言語学者だ)と。もっと地に足をつけた、事実重視の分析の方が、私には合っている。
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実は、生成文法の流行は、その当時、既に終焉を迎えていたように思う。別の大学の男の先生から、「あれ?チョムスキーってまだ生きているの」と問われ、「えぇ、まだお元気だと...」と答えると、「いや、学者生命の有無を問うているんだ」。もちろん、私には最初からわかっていたが、先生の名誉も。
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女性って、そういう言語外の文脈も考慮しなければならないから、結構、気回しが大変ですよねって、ちょっと余計なことを書きました(か?)。立てるべき先生は、もちろん、チョムスキーではなく、丹辺先生のことです。だって、チョムスキー論文を読む授業を組み立てられたのは、丹辺先生なんですから。
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こういうやり取りなどを経験しつつ、(女性が大学に研究者として残ることの精神的大変さ)を、しみじみ痛感したのだ。勉強が好きだということと、研究者として、男性と肩を並べて、長年、創造的に競争して生き残るのとは、全く次元も意味も異なるのだ。そこがわからないと、高学歴プアまっしぐらか?
←(後注:「高学歴プア」については、2009年12月23日・2010年7月18日付「ユーリの部屋」参照)
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話を元に戻すと、だからチョムスキーが「テロ国家アメリカ」だとか何とか、よくわからない政治論をぶつようになったのは、どこかで自ら編み出した生成文法に行き詰まりのようなものを感じたからではなかろうか、と思う。問題は、MITという大学の持つ世界的「権威」「威信」の影響力だ。
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ジェシカ・スターン模するDVD『ピース・メーカー』にも出てきたが、確か、MITで学位を取得した某ムスリム国家の研究者が、「技術的にテロ協力に回ったものの、命だけは助けてほしい」と懇願するシーンがあったように記憶する。このように、威信と権威の内実は、表裏一体なのだと思う。
←(後注:「ジェシカ・スターン」に関しては、2008年5月7日・5月8日・5月9日・5月10日・5月11日・5月13日・5月16日・7月10日・2010年4月30日・2011年4月16日・4月22日・5月19日・5月20日付「ユーリの部屋」参照)
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主人がMITに留学していたのは事実だが、私にとってありがたいのは、アメリカ留学の「箔付け」なんかではなく、アメリカの高等教育に集まる世界的な人口動態を部分的に見聞することができたという点だ。そもそも、米国そのものに、正直なところ、あまり興味がなかったのだ、反米ではなく単に無関心。
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理系ならば、米国の大学に留学して先端に触れるべきなのは、言うまでもないこと。ただ、私の場合、国文学科出身で、むしろ、アジア各国との文化的ルーツの探究に関心があった上、そもそも、アメリカの大衆文化が苦手だったことと、余計な雑音が多そうな学的環境も、どうも好きになれなかったのだった。
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自分の身の丈に合わせて、無理せず、黙々と地道に努力しているタイプが、私は好きだ。そのように、人生にある程度の余裕を持たせて、その中で自分なりのささやかな独創性のようなものが発揮できれば充分だ。肩書や外的条件は、確かに人生を左右する重要な要素だが、必ずしも、そればかりではない。
2h Lily2‏@ituna4011
見る人が見たら、すぐにわかるような化けの皮をかぶって、虚勢を張った人生なんて、まっぴら御免だ。今の忙しない大学環境は、まさにそんなところがある。ある程度は、世の中の流れに沿う必要性があるのは当然だが、そうはいっても、私には不向きだ。学問にも流行がある。有力教授の子分みたいな論文。
2h Lily2‏@ituna4011
欠けの多い私の小さな人生だが、それでも恵まれていたと思うのは、学問精神の真髄をご教示くださり、自ら実践される教授にお目にかかれたことだ。偶然の機会というよりは、みずからの性格や気質を軸として、自ら求めていった面もあったかと思う。そちらの方が、地位や名誉や肩書よりも、遥かに重要だ。
2h Lily2‏@ituna4011
話はチョムスキーから随分逸れてしまったが、結局、言いたいのはこういうことだ。先日、チョムスキーの対談を初めて映像で見た。予想に反して穏やかな話し方をするのに驚いたし、意外と見た目の良い方だと思った。しかし、これでだまされてはならない。暖炉前で政治談議をしているだけならよいのだが。
←(後注:「チョムスキーの対談」の映像は(http://www.youtube.com/watch?v=8ghoXQxdk6s))
2h Lily2‏@ituna4011
これに関連して、数ヶ月前だったか、これまた変な映像を見た。中東の某大学でのアメリカ研究の講義で、ムスリム教授が言っているのかと見間違うような、痛烈なアメリカ批判を滔々と述べた白人教授の弁。私なら、反米でも親米でもないが、聞きたくない種の講義だ。だって、なんか妙じゃない?
2h Lily2‏@ituna4011
若い人ならば、若気の至りとして許せもしよう。しかし、海外まで出て行って、自国の悪口を言って回る人って、何だか信用できないとは思いませんか?マレーシアにいた頃、そんな日本人を見かけた。日本社会に調和できなくて、はみ出してしまったようなタイプが、日本批判をしながら海外生活を続ける。

(転載終)

PS:もっとも、知識人たるもの、一般人とは異なった物の見方の提示、批判的視点を打ち立てること、誰もが思いつかない発想を言語化すること、これが仕事だと考えられているのかもしれません。しかし同時に、その発言が及ぼす社会への影響力をも考慮すべきではないかと思います。冒頭のチョムスキーの本は、大変に売れたそうですが、今はどうなのでしょうか。なぜ、言語学者フェミニズムにまで言及しているのでしょうか。私にはわかりません。それから、末尾の「日本批判をしながら海外生活を続ける」タイプの人々については、それこそ、三十歳までならば、旺盛な批判精神や個性として、むしろ望ましい資質なのかもしれませんが、中年以降も続けているならば、やはり要注意。自分がどこから生まれ、どこに落ち着くのかが確定していない、根なし草のような不安定さを伴うからです。そこから、ささやかな持論が生まれました。国際結婚は、幸せな例も多いのだろうけれど、やはり、緒方貞子先生がいみじくもおっしゃったように「老後までのことを考えて、無理のない結婚を」というのが、最も妥当なのではないかということです。文化規範のコードがどこかずれているのに、日本人を批判することで高みに登っているような、勘違いした人も、たまに見かけるからです。