ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

果たしてそうだろうか?

他のことに夢中になって、何やらすっかり遅れを取ってしまっている学会発表の準備。間に合うかしら?
昨日も、大学図書館で文献複写をして、2巻本の方は返却できました。あと残り、今日も午後、がんばります。それで本当の終わりにしましょう。

ルソーでしたか、「野生に帰れ」「原初に還れ」という意味のことを言っていたのは。私、ルソーって読んでいないんです。何となく、感覚的に合わないような気がして。でも、確か妹が、学生時代に机の上に置いていたような....。
加藤常昭先生の「説教塾」の話は、遠巻きに噂だけは伺っていましたが、今回、『礼拝を問い、説教を問うキリスト新聞社2007年9月)という、厳しい指摘の含まれた本を読んでみて、確かに何度も頷けるところがありました。そして同時に感じたのは、礼拝式文の改訂作業の根底にある主張を読んでいると、何だか、上記のルソーみたいだな、という....。現代の行き詰まりを古代に立ち戻って打開しよう、というような。それプラス、社会主義的というのか、アナクロのにおいのする世界共産主義運動みたいな考え方。
そして、その「誤り」をハイエクが鋭く指摘していたことも、併せて思い出されます(参照:2011年5月23日・5月24日・6月5日付「ユーリの部屋」)。ハイエクと言えば、うちの主人の勤務先で、しばらく前に開かれた外部講師による講演会でも、名前が出てきたとのことです。それはそうでしょうねぇ、業務上、ルソーなんて持ち出していたら、逆行してしまいます。
もちろん私だって、海外の動向から新たに学んだり、ほんのつい最近、知ることになった「リマ式文」の礼拝式構造を考えたりすることには、興味をそそられる点が、確かにあります。諸外国の讃美歌を集めて導入するのも、大事な仕事であったことでしょう。でも、専門雑誌のバックナンバーを読んでいて、何か自己宣伝めいた口調、一方の立場を断定的に打ち出している(加藤先生の表現を拝借するならば、「言い切っている」)ところが、どうも鼻につくというのか、即座に肯んぜずという気にさせられるのです。
「テゼー共同体やリマ典礼が日本に紹介されて久しい」のに「しかし教会の現実にあまり感化を与えていない」というご指摘は(p.26)、繰り返しになりますが、私自身、今年に入って初めて、「リマ文書」を知ったという事実からも裏付けられます(参照:2011年8月26日・8月27日付「ユーリの部屋」)。
讃美歌21』は数年前から持っていて、そこに確かに「リマ式文」という語彙が入っているのに気づいてはいました。しかし、それよりも、(なんでこんな風に歌詞を変えてしまったんだろう?)(これじゃあ、覚えにくいし、歌いにくいなぁ)と感じさせる歌の方が、先に目についてしまっていました。これは、決して世代や心理的固定のせいばかりとは言えません。なぜなら、幼稚園から大学院1年まで、毎週、音楽学校に通っていた以上は、音楽的基礎が皆無だとはいえないでしょうし、マレーシアで覚えた素朴で感傷的なマレー語讃美歌なども、歌えなくはないからです。そして、(この度、一時中断したとはいえ)毎日のようにクラシック音楽を聴き、演奏会に行く毎に、新たにメロディを口ずさめる曲が、徐々に増えています。
つまり、よいもの、胸を打つものならば、自然と入ってくるのです。そこのところの検討は、論争として軽くいなすのではなくて、本当に真剣に取り組まなければならないのではないでしょうか。
そういえば、私、今年の2月には、フランスに行っていたのでした。パリのノートルダム大聖堂での国際共同ミサ、ヌヴェール修道院での修道士や修道女達のぬかづくような動きの多い礼拝、ルルドでのミサと、世界中の人々が大勢集まってのろうそく行列など、本当に壮観で感動的な体験をさせていただきました。それに、2007年3月のイスラエルでも、さまざまな聖書や聖伝ゆかりの古い教会堂やシナゴーグ跡を訪れたり、ベトレヘムでは、アラビア語礼拝の教会にも、後ろから部分的に見させていただいたりしました。また、2005年8月には、アメリカのボストン近辺のカトリック教会やユニテリアン・ユニヴァ―サリスト教会などに入ったりもしました。そして、21年前から、折に触れてマレーシアやシンガポールの諸教会を、リサーチも兼ねて、いろいろと回っています。英語やマレー語の礼拝のみならず、言葉がわからないのに、華語やタミル語の礼拝やミサにも出させていただきました。
そういう限られた経験からしても、確かに、それぞれの教会のそれぞれのやり方には、伝統と背景と理由というものがあり、まずはその検討から入らなければならないはずだと思うのに、現代日本における独自のあり方を模索するよりも、「貧しさ」「全く考えていなかった」と一方的に断じる姿勢が、そもそも傲慢不遜というのか、かなり疑問でした。
上記本中でおもしろかったのは、豊かさを取り戻すとして式文改訂の動きに乗っている側に対する、「すべてマニュアル通り」「しかし言ってみれば何事も起こらなかった」(p.82)「模範として提示される式文の貧しさ」「書いた者自身がその貧しさに気づいていない」という鋭いご指摘(p.96)。
そして、加藤先生のドイツ人の恩師が、礼拝というと、ドイツでも正教会のやり方を取り入れることから「自信がないんだろうねぇ」とつぶやかれたというくだりにも(p.29)、ハッとさせられました。
そうなんです、自主的な取捨選択の判断というものが欠けているように感じられるのです。何だか、「世界の教会の潮流はこうなのに、あなた達は、それを知らないでしょう?」と非難されているかのような。それとも、どこか上部組織の命令によって、一つの神学的決定を各国教会に普及させるよう密かに指示されているのかしらん、と。
リマ式文による華麗な礼拝式は、公共の記念日などで行われるならばいいと思います。でも、私がずっと気になっているのは、(普段はやっぱり、説教内容だよなぁ)と。一回、一回の印象ですべてが決まってしまうという厳粛さを、もっと考えていただきたいな、と。
加藤先生が御著書で繰り返される「果たしてそうか」「本当にそうか」というストレートな問いかけは、心してよく心に留めるべきだと、まずは自分に対して思いました。