ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

経験に基づいた知識で

今日の午後は、大学図書館へ。学会発表のためにどうしても見ておきたかったオックスフォード大学出版の文献(厚さ5センチ強の二巻本)を、8月11日の夏休み前に予約しておいたのですが、到着直後の一時には、「まだ届いていません」。
他の用件で複写をとったりするなど、待つこと三時間。(今日は駄目かな)と思ったのですが、カウンターに行くと「はい、届いてます」。東洋大学からでした。これは、私のこれまでのささやかな経験中で初めての大学ではないか、と。
なかなか充実した内容で、インデックスを頼りに付箋をたくさんつけて、一通り目を通すことができました。また出かけなければなりませんが、なんとか学会までには間に合わせたいと思います。この本は、何年も前から気になっていたので、ようやく、といった感じです。
そして、その間に、またいろいろと興味深いというのか、楽しい資料を見つけてしまいました。
日本基督教団改革長老教会協議会・教会研究所が発行している『季刊教会』という季刊誌のNo.75(2009年5月)です。
別の号に関して、インターネットで見て、2か月ほど前にメールで教会宛に申込んでみたのですが、二回とも受取り通知だけ届き、実物については送られてきませんでした。(どうしても読みたい号があるんだけど)と願っていたところ、大学図書館の地下に製本されていることがわかったのです。
もっと薄い冊子なのかと思いきや、90ページぐらいもある本格的な内容で、読者層の顔ぶれが目に見えるようです。(やはり違うなあ、さすがだなあ)と尊敬すると同時に、これまで、偏見にとらわれて何か大事なものを見逃してきたような感覚を持ちました。
中でも、関川泰寛先生の「南アフリカWCC会議に出席して」(pp.34-48)は、昨今のWCC関連の報告の中では、最も興味深く読めました。というのは、これまでにも、故前田護郎先生の『聖書愛読』での報告を除けば、『福音と世界』や『礼拝と音楽』などの文章を読んだものの、ある場合には、(そんな内輪の話をよそでしなくてもいいのに)と感じたり、(それは部分中の一部の話なのに、どうして?)と疑問に思ったり、あるいは(あまりにもきれい過ぎる報告だなぁ)などと不思議だったからです。
これまでに出席された方から、会議のエピソードの断片も幾つか聞いたことがありますが、「感動した」「賛美が素晴らしい」「礼拝が楽しみで仕方がない」というような、出席していなくても言える表現だったり、「誰それがお腹をこわした」とか、自分はどうだったか、というような、趣旨からすればどうでもいい話(ごめんなさい!)だったり、自分がどういう発言で貢献したかで終わっていたりするなど、全体として、どこか曖昧というのか、(だから、その●●さんが、一体、どういう話をして、その反応はどうだったのか、具体的に教えていただきたい)と、不満が残るようなものだったのです。
(どうして報告がきれい過ぎるんだろう?)と考えていたら、主人が「そりゃ、西洋人とか旧植民地出身者が、キリスト教の会合でベチャクチャ自己主張し始めたら、普通の日本人は聞き取れないから、報告書を見て書いているんじゃないか」と、なかなかシビアな意見。(確かに、マレーシアで宗教間対話の会合に出た時さえ、午後の数時間でも、ぐったりして頭が朦朧としてきた経験があります。メモを取ってはいても、使い物にはなりませんでした。)
関川先生によれば、「常に緊張を強いられました。」「学会よりもはるかに英語力を必要としました。」との由(p.36)。そういえば、そういう率直な話を、限られた範囲内では、これまで聞いたことも読んだこともなかったなあ、と。(故前田護郎先生を除く。)今までの代表者の方々、どうされていたんでしょう?前から疑問だったのは、もし、そのような国際会合で十何年も海外のキリスト教代表者達と討論して渡り合っていたならば、当然、日本語でのお話や文章も、もっと切れ味鋭く、内容に深みと幅が増すはずなのに、なぜだか、ご自分で文末に笑いを入れたり、おかしくもない変なダジャレが多かったり、繰り返し同じ話が出てきたりしたことです。
また、日本語に抄訳してわざわざ出版しなくても、本当に興味があれば、今ではWCCのサイトも充実しているので、原語(主に英語)でそのまま読んで、内容について即座に議論することができるのに、とも思っていました。
さて、批判はこのぐらいにして、上記季刊誌で、一番おもしろかったのは、次の箇所でした。

わたしは、折角の機会でしたので、現在日本基督教団で起こっている「違法聖餐の主張」すなわち未受洗者にも陪餐を認めるという主張が、実際世界の合同教会で行われているか、あるいは実践されているかを可能な限り聞いて回りました。わたしが聞いて回った限り、日本で主張されている未受洗者の陪餐を積極的に主張する立場も実践例もありませんでした唯一例外的に聞いたのは、イングランド合同改革教会で、open tableと称して、再婚した家庭の未受洗の子供たちを聖餐卓に招き、家族と一緒に陪餐させることの是非が論じられているということでした。わたしが、オーストラリアの合同教会の長老と食事の席でこの問題を話題にしたとき、その方は、目を丸くして、「(日本でそのような主張をする)人々は異端でしょう。なぜ、異端と論争する必要がありますか」と語気を強めて語っていたのが印象に残りました。未受洗者陪餐の問題を話題にすると、参加者の多くは問題の所在の理解に苦しむか、その過ちをただちに悟って、それは論外という反応を示すかのどちらかでした。(pp.34-35)

この際なので、はっきり書きますと、南メソディスト大学パーキンス神学部のロバート・ハント先生から聞いた合同メソディストの話を(参照:2011年6月5日付「ユーリの部屋」)、ご当人に伝えると、「もう(未受洗者に対してユーカリストは)開かれた」「その人の見方の問題じゃない?それか、その人がまだ知らないだけか」と即座に否定されました。その反応そのものが、証拠も出さずに唐突というのか、非常に驚かされたのですが、「未受洗者陪餐の問題だけを取り上げて、政治問題化されている」ということに、相当強いご不満をお持ちのようでした。(そもそも、経過を昔に遡ってみれば、どちらが先に「問題提起化」されたのか、今では資料上からも、はっきりしているのですが。)

ともかく、近い将来、マレーシアやシンガポールに行って、神学校や教会の友人知人に聞いてみる価値はありそうです。関川先生が、わざわざ試されたぐらいなのですから。
だんだん私、自信が出てきました。派生的には伝道論や宣教論、およびその変遷とも関わる内容なので、私のリサーチテーマとも関係があります。やはり、今年前半、悩みながらも新たな勉強に入れて、今では意味なしとはしません。