ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

とりとめもなく (その3)

昨日は雨だったこともあり、一日中、ヒルティ三昧。一気に200ページほど。もっとも、20代から繰り返し読んできたために、心身に染み込んでしまっていて、すぐに読めてしまうのでしょう。
こんな贅沢は、外で正規職として働いていたら到底できないもの。だから、物事には両面あることを思い、マイナス面ばかりに悲嘆せず、プラス面をできる限り活かしていければ、と思ってはいます。
改めて、ヒルティの洞察は鋭く、穏当で、実際的であることを確認。現在では、「差別」「西洋中心主義」と非難される数々の記述にしても、そういう指摘を避けようとする安易さに陥るのではなく、まずは、次の点を考慮すべきではないかと思います。(1)書かれた当時の文脈(いつ、誰に向けて、どのような目的でなのか)を理解すること (2)キリスト教以外の諸宗教や旧社会主義圏について、現在の状況をよく観察した後に、その妥当性を判断すること (3)結果として、良い木は良い実を結ぶ、ということ。

結局のところ、私自身の価値観というのか世の中の判断基準が、最近になって読み始めたり、久しぶりに読み直した次の著者達と、ほぼ合致しているということなのかもしれません。つまり、カール・ヒルティシモーヌ・ヴェイユ(参照:2011年5月12日付「ユーリの部屋」)、ハイエク(参照:2011年5月23日付「ユーリの部屋」)。育った環境からも、今の暮らしぶりからも、ほぼ妥当な路線では?ファシズムであれ、マルクス主義であれ、社会主義であれ、とにかく全体主義というイデオロギーに対する嫌悪感。伝統文化に沿った生き方。世の秩序を重んじる態度。一見、古風で保守かもしれないけれど、そういう安定した基盤あってこそ、自由で開かれた物の考え方や行動ができると、経験上、思っています。

そうすると、20代から30代初め頃にかけての私にとって、模索中だったゆえに、かなり無理に無理を重ねて、大学や学会などでは、ディシプリンや地域が近いか同じという理由だけで「先生」と呼び、内心に違和感を覚えながらも、世の中の倣いに従っていただけの時期があった、ということも意味します。

でも、この歳になったのだから、もう模索は終了。あとはまっすぐ、己の信じる道を歩むのみ。(往く道よ、扉を閉ざさないでね!)

このところ、日課の勉強を一時中断。予想以上のショックを受けている自分に驚き、なかなか気持ちが乗らず、集中力に欠ける時間の無駄を省きたいためもありますが、もっと大切なのは、昨日書いた、敬愛する一人の友人の言葉をよく反芻するため。ご本人の許可なく恐縮ですが、広く共有できる励ましでもあるため、ここに少しご紹介を。

・大きなところのどこかにつながっていると確信して、不条理さの挑戦を受けて。
・何も問題がなければ考えなかったことを考え、理解できるようになれば。
・素直さと勇気を持って。
・道はひとつじゃない。
・よろずに時あり。
・わけのわからない目にあっても意味がある。
・常に求めていくこと、必要とされるものは与えられると、子どものように信じていい。

この最後の部分、これって、マレーシアのテーマを追求していくと、必ずしもそうなっていないことを知ってしまっているので、かなり深刻。社会面では、頭脳流出としての現象に如実に表れています。流出して場が持てる人達ならまだしも、そうでない人々にとっては、どうなのかということ。だからこそ、外部の目で何かできればと願ってのことだったのですが、もし、道が塞がれているとしたら、一体、どうしたものでしょうか。