ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

昨日の続き

...と、いろいろと書いてはいますが、うちの主人によれば、「そんなことが言えるのは、ユーリだから。または女性だから。男同士なら、まず言えないな」と。でも、だからこそ、この世に男性と女性が存在することの意味、そして、互いに相補関係にあることの意義が見い出せるのではないでしょうか。
ジェシカ・スターン氏の“denial”を、今朝から読み始めています(参照:2011年5月19日付「ユーリの部屋」)。
社会問題としては知っていても、私自身は、個人的に未経験の事柄なので、どこまで理解できるか、それ以上に、理解する資格があるのかどうか、実は不安でもあります。でも、化学研究に始まり、世界一級のテロリズム研究の根底を支えた彼女の動機が、実は、こういう悲痛極まりない思春期の事件に基づくものであったということ、しかも、そのこと自体が、長い間、抑圧され、自身も気づかないままに否認していたという深く複雑な心理、それにも関わらず、被害者である妹さんと彼女自身が、一見、充実した‘成功’の人生を歩んでいて、幸せな家庭にも恵まれているというパラドックス、これらすべてが、彼女の卓越した研究の背景には必要だったのかと思うと、驚きです。
それに加えて、しばらく前にアメリカで報じられた、カトリック司祭による少年陵辱事件との絡みもあります。(それについては、私も某研究会の会報に掲載された小さな文章で、以前、言及しました。)
ところで、随分前に、世代の近い女性研究者から言われたことは、「本当の心からの祈りは、母語でなければできない」と。私は、必ずしもそうは思っていません。非母語のことば、努力して身につけた距離のある外国語だからこそ、かえって響くし、心に入ってくるということもあるのではないか、と。表現するにも、母語ではピタリと該当しなかったり、感情がまとわりつき過ぎて母語にしにくい、ということもあるかもしれません。
例えば、上記の本も、英語だから読めるのであって、日本語訳なら、読むのに多分、かなりの抵抗があるでしょう。そういう箇所が、ざっとページを繰ってみたところでは、幾つかあります。これは、英語力の問題ではありません。本当に知りたいと願ったら、時間はかかっても、自然と母語能力に近い程度の力は身についてくるのではないか、と思っています。
昨日書いたこととの関連でいけば、なぜジェシカ・スターン氏の研究人生に私が関心を寄せたか、ということです。(すごいなぁ)と驚愕し、見上げるような業績でありながら、単に、名を挙げたいがための競争的研究ではなさそうだと直感し、ハーヴァードでは、人と違った変わった研究をしなければ身が持たないという程度ではないような印象を受けたことの理由を、知りたかったのです。
そして、今にして思えば、予想以上に重たい私的事実が暴露されることになったとはいえ、だからこそ、あそこまでテロリズム研究ができたのだ、ということが明らかにされつつあります。
この本を読むことで、私に何がもたらされるのかはわかりません。少なくとも、同じ女性として、同時代を生きる者として、何か感じることだけはあるだろうと思います。彼女の場合、よき伴侶に恵まれていて、本件について、逃げることなく一緒に理解を進めてくれたようです。このことは、非常に大切な要因で、それなしには、単なる女性被害者の悲嘆で終わってしまっていたでしょう。そういう類のものなら、読みたくはありません。