ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

女性は強い!

本日付の英語版ブログ“Lily's Room (Part 2)”http://pub.ne.jp/itunalily/)に、ジェシカ・スターン氏による2005年1月の講演をアップしました(彼女に関しては、次を参照:2008年5月8日・5月10日・5月11日・5月13日・5月16日・2011年4月22日付「ユーリの部屋」)。
講演内容そのものは、著作『神の名におけるテロ』に沿ったものです(参照:2008年5月7日付「ユーリの部屋」)。改めて(さすがはアメリカ、命懸けのすごいリサーチだなぁ)と感銘を受けました。講演後の質疑応答も、真剣勝負で具体的で、大変勉強になります。
こういうレベルを目標としなければ、グローバル化には対応できないのではないか、と思う一方で、最初から土台が違い、環境も異なっているので、どうしたものか、とがっかりもしています。
ところで、友人が送ってくれたメールには、何度も笑わせられました。おととい夜から昨日の午前中にかけて、とても気が沈んだばかりか、何だか情けなくて、何もする気になれず。一人でいると、ただ涙ばかり流れて困っていました。お昼過ぎになってやっと少し元気が出て、ふとパソコンを立ち上げてみると、いつも忙しい彼女から、長文のお返事。
やっぱり女性は強い!具体的な助言および励ましに加えて、あまりにもストレートな表現箇所が幾つかあって、笑ってしまいました。今、こうして書いていても、笑えて仕方がありません。
9年ほど前、大分での研究会で、「女性は強い!」と言われたことがあります(参照:2007年9月18日・2008年10月27日・2009年10月29日付「ユーリの部屋」)。今でも印象が強く、思い出される毎に、感謝と共に励ましとさせていただいています。あの時には、自分の発表後、すぐ休憩となり、喉が渇いたためにコーヒーを一口飲んで顔を上げたところ、甲南女子大学学長職をこの3月で退かれたT先生が、もう一人のT先生(旧M先生)と並んで、目の前にニコニコして立っていらっしゃったのです。「もっと勉強しなければダメじゃないか」と、内容を叱られるのかと思ったら、開口一番、「いやぁ、女性は強い!」とおっしゃったので、びっくり。そればかりか、夜の懇親会でも、目の前で再度、同じ事を言われました。
今から考えてみれば、京大を退官後、女子大に赴任することが決まっていらしたため、特に、現代の女子教育のことを考えて、そのようにおっしゃったのではないか、と。また、温泉での慰安を兼ねて、奥様同伴でもいらしたので、その意味で配慮されていたのかもしれません。あるいは、名古屋でお世話になった先生が(参照:2011年2月17日・3月2日付「ユーリの部屋」)、1994年頃だったか、私の勉強について、「T先生に話をつけておいてあげましょう」などとおっしゃったことがあり、その一返答だったのかもしれないとは思います。
(後注:ただし、T先生のご専門は人口統計学で、私とは、単に対象地域が同じというだけです。その懇親会で、なぜ先生がマレーシアを研究対象に選んだか、初めてうかがうことができました。理由は、「あそこは離婚が多いぞ」と聞いたから、との由。立派な業績と経歴を積み重ねられた大先生でも、研究のきっかけは、案外、卑近なところにあったという事例なのかもしれません。特に、男の人の場合は。)

ジェシカ・スターン氏による宗教的動機に基づくテロリスト達との面会リサーチは、ユダヤ系男性ジャーナリストが殺された後だったために、「私の場合は、(保護される側の)女性だからできたのでは」と。もちろん、怖くなかったはずがないことは、上記本を読めば随所に出てきます。
ただ、さまざまな意味で、体面や社会的地位を気にせず、物事の本質にストレートに向かおうとする点で、女性の方が有利だろうとは思います。友人のメールに笑ってしまったのは、理系専門家としての彼女のまっすぐさが、あまりにも的を射過ぎていて、しかも愛らしかったから。
こうやって、大学でも日々「戦って」いるんだろうなぁ、と思うと、何だか、ある意味で先輩でもある同志としてかわいらしくて、笑う度に、私も少しずつ元気になってきました。

PS:とは書いてみたものの、その後、『ボンヘッファー選集〈第5〉抵抗と信従』(参照:2011年5月19日付ツィッターhttp://twitter.com/#!/itunalily65))を最後まで読んでいたら、ボンヘッファーには感銘を受けたものの、私自身を取り巻く現状と結び付けて考えると、訳もなく腹立たしく、そうこうするうちに、またもや悲しくなってしまいました。もともと喜怒哀楽が激しいのは確か。でも、いろいろな面で、相当な時間がかかっていただけに、しかも深いところと関わっているだけに、自分でも無意識のうちに無理をしていたんじゃないか、と思うと、とても悲しくて仕方がない。
ボンヘッファーの死には、確かに意味があったと、私は思います。このように、今でも著作を通して、その明るく透明な精神性と、落ち着いた深い思索に感銘が与えられるのですから。でも、私の場合は?上記の友人は、「意味がある」と断言。
そういえば、冒頭のジェシカ・スターン氏も、上記講演の時期には、彼女が過去に受けた内面の苦痛は、まだ公表されていなかったのでした(参照:"denial: A MEMOIR OF TERROR", An Imprint of HarperCollins Publishers, 2010) 。本当に勇気ある行為で、しかも、自分の内的人生とテロリズム研究が見事に結託した、稀有な事例でもあります。その種の経験あってのことではありませんが、私も、そのような方向、つまり、常に裏表無く、理不尽さのうちに意味を見出しつつ、しかるべき方向へと導かれればいいのですが。