今朝は少し焦りました。
昨年のまだ寒かった頃から、暇を見てはコツコツと集めてダウンロードし、「私家版電子図書」のようにして、1800年代の英語版やドイツ語版のジャーナルや、現代のマレー語と英語の論文集などを作っていたのですが(参照:2010年4月7日付「ユーリの部屋」)、久しぶりにクリックしてみたところ、すべてゼロに。(え〜!それはないでしょう?)と、あちらこちらボタンを触り続けて操作に励んでみたら、やっと元の資料集が出てきた、という....。項目毎に作ってあって、相互の重複も含めて、のべ2005点の電子図書だったので、消えたからといって、これをやり直す気にはちょっとなれず...。安心しました!
バックアップ機能もバージョンアップしてもらい、いざという時に備えてはあります。でも、所詮、人造であるパソコンのこと、何が起こっても仕方ありません。これからは、紙にもリストを書き抜いて保存することにします。やれやれ。
昨日書いたホアン・マシア先生。日西両語による個人ブログを見つけました。何と同じ「はてな」をお使いのようです(http://d.hatena.ne.jp/jmasia/)。先生が書かれたスペイン語の本を読むよりは、ブログの方が楽だろうと思います。これから時々覗いては、スペイン語を音読させていただき、少しは磨きをかけなければ。毎日、日課の勉強に組み込んで、少しずつ続けているとはいえ、どうしてもまとまった文章を読む機会が少ないので。
一見、こむつかしく高尚な響きのする「神学」。でも、私にとっては(カトリックのキリスト教とはそういうもの)と思って、長年、自然に受けとめてきたので、スペイン語で書かれている部分も、特に違和感はありません。聖書解釈は、知的でモダン。プロテスタントの方で慣れているというのか、むしろ、混乱させるヘンな議論を知ってしまっているため、マシア先生に関しては、別に何とも。さすがに「原発反対」に関しては「行動する神父」を彷彿とさせ、エネルギー代替源を専門的に踏まえた上での、個人の選択に委ねるべきでは、と思いました。
私自身は車も所有せず、公共交通機関で済ませ、普段から電気も頻繁に消し、研究発表のレジュメは縮小両面コピーで作り、広告の裏面はメモに使い、など、長年、省エネ生活で過ごしていますから、これ以上の贅沢な経済活動は不要だと常々感じています。ただ、エネルギー消費に関するグラフを見ていたら、「この分析には、この点が欠けている。これでいったら、すぐに停電するよ」と、理系の主人。高層ビルや巨大化する駅構造、夜間の無駄なネオンサイン、24時間営業のコンビニなど、私達の子ども時代になくても不自由を感じなかった側面を、もっと節約に回せば、何とかなりそうにも思います。
話を元に戻しますと、司祭も牧師も、結局のところ、実力主義の自由業的な側面があると考えています。吉祥寺カトリック教会の後藤神父さまから、「いえ、司祭は何をやっても自由なんです」とうかがったのは、17年以上も前の名古屋でのこと(参照:2008年9月3日付「ユーリの部屋」)。もっとガチガチに教会法で縛られているものだと思っていたので、新鮮に思いました。
「自由」とはいえ、単に「神学を学んで資格を得て、教会の職に就く」というのではなく、その人自身の生き方および人間としての力量がすべて反映される、ということです。だから、常に考え、行動し、語ったことを実践していなければなりません。そして、自分の得意な面、(どうしてもこれだけは)という分野で勝負(?)すべきではないか、と思います。ある人にとっては、途上国での聖書翻訳でしょうし、別の人にとっては、社会福祉面での活動でしょうし、哲学や思想などの思索が好きならば、著作に賭けるとか。
では、一般人の私は?やはり、マレーシアで間歇的に生じ続け、今もゴタゴタやっている問題を(参照:“Lily's Room”(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20110516))、私なりの視点で極力きちんと調べて考察し、まとまり毎に発表をし、文章化して公表する、という作業を積み重ねていくことです。
あ、そういえば、広東系マレーシア人の牧師をしている友人が、最近、私に書いてくれたのは、「日本人は島国根性で内向き。自分のことしか考えていない」という痛烈な批判。その人は、クアラピラーという日本軍による華人虐殺の最もひどかった地域の出身ということもあってか、昔から、そのような印象を日本人に抱いていて、これまで同じ事を度々聞かされていました。もちろん、日本人の端くれとして、決して心地よい話ではないので、聞く度に、(我が身をもっと開くべしという教訓だ)と自己反省の契機として受けとめていました。ただし今回は、「あんたみたいに、海外で働いていた(serve)人は別だが」との添え書き付。あらら?
決して私は、日本人が内向きだとは思っていません。歴史をひもとけば、結構、昔から好奇心旺盛で、海外にも果敢に出かけて、有形無形の新しいものを積極的に取り入れようとする血が流れていると、考えています。でも、そんなことを、その友人に直言することは、とてもできません。
彼曰く、「英国人支配の影響下で教育を受けられて、自分達の世代は幸運だった。より広い視野が得られ、バランスのとれた教育だった。今や、内向きで偏った見方が蔓延している。自分達の歴史でさえ、改変が行われているのだ」と。マレーシアの問題は、そこにあります。だからこそ、何らかのお役にでも立てればと願って、リサーチと勉強を続けている私です。