ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ホアン・マシア神父の「神学」

ツィッターhttps://twitter.com/ituna4011)の転載から。

・Lily2‏ @ituna4011 49 seconds ago
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/244256966 …)ホアン・マシア『バチカンと解放の神学』南窓社(1986年)が中古で届いた。


・Lily2‏ @ituna4011 6 minutes ago
解放の神学―信仰と政治の十字路』(1985年)(https://www.amazon.co.jp/dp/B000J6Q0KO/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_SO6kzbC2E5RQC … via @amazonJP)


・Lily2‏ @ituna4011 8 minutes ago
クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』名越 健郎(中公新書)(https://www.amazon.co.jp/dp/4121012070/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_jN6kzbTBPEKBQ … via @amazonJP)


・『KGBが日本を狙う 情報戦略なき国家』古森 義久(オンデマンド)(https://www.amazon.co.jp/dp/B01M2C5YGA/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_3L6kzbKHGFVZX … via @amazonJP)

(転載終)
昨日は、届いたばかりの上記四冊に加え、ホアン・マシア神父の『カトリックこぼれ話』(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170525)も併せて読んだ。
全部を完読できていないが、最もおもしろかったのが、古森義久氏のレフチェンコ事件(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170410)。読んでいると夢中になるが、現在にも充分通じる話であり、やはり怖いことである。同時に、『クレムリン秘密文書』の本にも、故三浦綾子氏と親しく、文学館の設立に協力したという故五十嵐広三氏のソ連との関わりが詳しく記述されていて(pp.129-136, 158)、改めて驚いた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170524)。三浦綾子氏が亡くなって18年ぐらいになるが、今もなお作品が映画化されるなど、影響力は残っている。但し、若い世代は知らずに政治的にも感化されてしまうことがあるだろうから、作品が生み出された歴史的背景と今日的意味など、充分に理解する努力を忘れないでいただきたい。
これら四冊+一冊は一見、カトリック神学とクレムリン/KGBという無関係のテーマのように見えるが、通底するのは、やはりマルクス主義路線だ。
「解放の神学」の護教家であるスペイン出身のホアン・マシア神父は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170525)、スペイン語ツィッターを二つ持っており(https://twitter.com/juanmasiasj)(https://twitter.com/jmasiasj)、ガザ紛争ではイスラエル批判に回っていることから、既に立場は明らかである。
また、スペインの"El Pais"紙に時々投稿されていたようで、投書内容に英語で批判がついている海外サイトも見た。「イエズス会司祭にふさわしからぬ発言、見解である」とか「破門されないのはなぜか」という辛辣なものである。他にも、スペイン語のウェブサイトないしはブログを幾つか持っているようだが、中途で止めては別のサイトを新設されているらしく、全体を把握するのは難しそうである。
スペイン語と日本語の両方で本を出版されている上、仏典までスペイン語訳されているので、優秀な学問司祭なのだろうが、生命倫理の話にしても(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110515)、どうしても私にはしっくり来ず、わだかまりや違和感が残る。また、教皇ベネディクト16世ラッツィンガー枢機卿)を非難したり、「境界線」(http://www.juanmasia.com/)「手作り」(http://d.hatena.ne.jp/jmasia/)という考え方が好みのようなのだが、正直なところ、「何のために日本に来られたのでしょうか」と質問したくなるような読後感なのだ。
「解放の神学」を実践したいならば、私達に説教せずとも、同じスペイン語圏のラテンアメリカへ赴いて、そこで教えたり、労働司祭をされてもよさそうなのに、なぜか日本の大学で教鞭を執っていらした。
また、上智大学副学長の故アンセルモ・マタイス神父も「解放の神学」を紹介されていたが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170518)、同じくスペイン出身だった。そして、お二人とも、どういうわけか和辻哲郎を研究したという共通項をお持ちである。
もし、かつてフィリピンを植民地支配した宗主国の出身者としての罪悪感があるとすれば、快適な東京ではなく、マニラのスラムにでも居住してはいかがなのか?
スペイン語圏のイエズス会が「解放の神学」思想に染まっているのか、たまたまスペイン出身のイエズス会士が「解放の神学」に引き寄せられて、直接には関係のない日本で紹介したいと闘争心を燃やしたのか?
日本のカトリック信徒(特に大阪教区)の中には、本気で心配して、問題の原因となっているリベラル神学者(例えばカール・ラーナー)の本を勉強したり、その結果をわかりやすくブログで公表したりされている人もいる(https://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/2475291.html)(https://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/2547570.html)(http://immacolata.blog89.fc2.com/blog-entry-47.html)(http://immacolata.blog89.fc2.com/blog-entry-50.html)(http://immacolata.blog89.fc2.com/blog-entry-52.html)。必ずしも、その人々が著しく保守的な狭い考え方をしているとは、私には思えない。カトリックとは、もともとそういう信仰だろうと昔から理解していたので、むしろ、信徒の方が(一部の)司祭よりも真っ当な印象を与える。
私が「解放の神学」の本を取り寄せて勉強する気になったのは、昨今の九条護憲派や沖縄・反原発等の抗議団体には、カトリックプロテスタントの両方における主流派キリスト教組織が目立ち、どうやら北朝鮮情勢とも密接に関わっているらしいと気づいたからである(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170511)。
もう一つは、従来、リサーチを継続してきたマレーシアのキリスト教に関して、特にマレー語の聖書問題を調べてきた経験から(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%DE%A5%EC%A1%BC%B8%EC%C0%BB%BD%F1&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%A5%DE%A5%EC%A1%BC%B8%EC%C0%BB%BD%F1)、「(東南)アジア」と言えば自動的に「第三世界」の「解放の神学」の範疇に一括りにされてしまう不満を、長い間、感じてきたからである。
インドネシアで「解放の神学」を広めようとしてきた日本人神学者がいるようだ。6年前の今頃(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170411)、神学部のある教授から勧められて、一応、著作に目を通したものの(木村公一インドネシア教会の宣教と神学 : 開発と対話と解放の神学の間で新教出版社(2004年))、私とはアプローチや感触が根本的に異なるものだった。つまり、私の現地観察や文献調査の結果と合わないのである。(ユーリ後注:ウィキペディア情報によれば、この木村公一牧師は「イラク戦争時に人間の盾としてイラクに赴いたことで知られる」とのことである。)
それにも関わらず、東南アジアで言葉が似ているからと、インドネシア(蘭領東インド)もマレーシア(英領マラヤ)も一緒くたにして「キリスト教」の枠内で扱おうとするから、いつまでも前進できず、的外れなコメントや質問が続いたのであろう。
ホアン・マシア神父に関しては、1980年代半ばに日本で「解放の神学」を導入するに際して、拒絶されないように、曖昧に穏健に伝えたつもりだったのだろう。そのように本文に書いてある(『解放の神学:信仰と政治の十字路』第九章「しかしそうすることはもうすでに調和ではなく、安全第一の立場に片寄ることになる。結局私は解放の神学を語る勇気も資格も足りなかったのかもしれない。」p.189)。また、ある面で、カトリック人口の小さい日本を軽く考えていらしたのかもしれない。
本の中で、マルクス主義と「解放の神学」は違う、と繰り返し力説されているのだが、私から見れば、社会分析に社会科学の方法を用いる、とした段階で、既にそれはマルクス主義だと言える。それに、反米思想ないしは米国への対抗意識が現れている(同上 pp.186-188)。また、(経済的に)貧しい人々を中心軸に据え過ぎである。その上、過去のカトリック伝統を尊重する態度に欠け、常に「新しく」「前進」していなければならないかのように、一方的過ぎる。
第一、ニカラグアのサンディニスタの話に関して、「初めてマルクス主義的な政府によって、宗教と良心の自由が認められるとともに、社会正義のために宗教と信仰が果たした役割が公に認められたことである。」(同上 p.185)という一文は、果たして妥当な記述だと言えるだろうか。
言葉で指摘されているだけならばまだしも、インターネットで写真を見ると、この頃のカトリック教会の祭壇の後ろ(正面)には、なぜか大きな政治的な垂れ幕が掛かっていた等、どう見ても下品で宗教性に欠ける。

マシア神父はラテン系なのだから、もっと大らかで陽気でユーモアたっぷりの温かい人柄を想像していたのだが、日本に長く滞在される間に真面目になられたのか、それとも、生真面目な日本人に合わせていらっしゃるのか、または、学問司祭だから堅苦しいのか、あるいは秘められた闘争心を抱いていらっしゃるからなのか、どうも今一つ、伸びやかな楽しさがない。