ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

小気味よさ

ある国家プロジェクトの仕事と関わることになったらしい職場の指示で、説明会に出席したという主人から、理系の依頼研究資料を見せてもらいました。予想通り、研究費用の桁がそもそも違う!そして、プレゼンのためには、当然の如く、「パワーポイントを提出のこと」「発表時間は15分間」と規定されていました。
そうしてみると、ただ文章を読み上げるだけの発表の代わりに、現代ツールを用いての研究発表に対して、狭いサークル内で長年やってきたために、「それでは学問ではない」などと公言する人々は、一体、一般社会でどのような(暗黙の)評価を受けるのでしょうか(参照:2011年3月8日付「ユーリの部屋」)。15分間の発表を聞いて、内容が即座に理解できて、査定もできるほどの勉強を、日々積み重ねていることが前提。厳しいといえば厳しいのですが、一般人は、そのように仕事をして生計を立てています。それが常識というもの。
さて、今日の朝日新聞夕刊には、4日前に京大シンポでお目に掛かったばかりの藤原帰一先生が(参照:2011年4月16日付「ユーリの部屋」)、興味深い直言をされていました。

・学者の本業は、すでに終わった事件や決定を跡づけることだ。霧が晴れ、資料も揃い、何が可能で何が可能でないかがはっきりした時点で議論するのだから、頭が良さそうにも見えるだろう。だが、その頭の良さは役立たずと表裏の関係にある
・試みに三〇年前の総合雑誌を開き、そこで行われる議論を見れば良い。その議論のどれほど多くが冷戦という枠組みによって縛られていることか
・だが、執筆から百年以上を経た今も、福沢の言葉の緊張感には揺るぎがない。さらにいえば、自分の言葉で考えることのよろこび、いわば悦ばしき知が、どの文章にもあふれている
・同時代に身を置いて現在の意味を探ることができなければ、学者をする意味はない

いいなぁ、この小気味よさ。そういえば、藤原先生は「論文はたくさん書いたけれども、本の内容はまだ固めていない。やりたくないことが二つ」などと、明快に語られてもいました。