ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

自分自身の殻を打ち破り...

今年はショパン生誕200年とのことで、世界各地でショパンにまつわる演奏会や催しが開催されました(参照:2010年4月30日付「ユーリの部屋」)。もっぱら聴いて楽しむだけになってしまった私にとっては、ありがたい限りですが、ピアノ関係者にとっては、ショックな年でもあったようです。
というのも、10月にワルシャワで開かれた第16回ショパン国際コンクールに、国別最多の17名を送り出した日本が、なんとあろうことか、3次予選にも進めなかったという事態が発生したからです。
青柳いづみこ氏が2010年11月10日付『朝日新聞』夕刊で、叱咤激励のような分析を掲載されていました。それによれば、

・基礎力が十分ではない
・きちんと弾いているが個性、色彩感が足りない
西洋音楽の文法のようなものは意外に浸透していない
西洋音楽は理詰めの芸術

といった、既に人口に膾炙したような内容で、

・教師の解釈を鵜呑みにするのではなく、自分で資料を調べ、作曲家の真意を知り、行間まで読み取って欲しい

という助言に加え、締めくくりとして、

・大いに和の心を活かしてほしい

という激励で閉じられていました。
おっしゃることはわかるにしても、「教師の解釈を鵜呑みにするのではなく」「西洋音楽の文法を踏まえた上で、大いに和の心を」というのは、では実際、クラシック曲を演奏する上で、どのように実現できるんだろうか、と考え込まされた文章でした。
一方、非常におもしろかったのが、昨日、図書館で読んだ2010年12月号の『音楽の友』のクリスティアン・ツィメルマンの4ページにわたる特別インタビュー。今回のコンクール開催時に演奏会の仕事で日本に滞在していたこともあってか、日本人の3次予選通過ゼロという事態には、1975年の同コンクールの優勝者として、ご本人自身、何か責任のようなものを痛切に感じられていたようです。「どうしても話をしておきたい」と自ら買って出てのインタビュー。4ページにはおさまりきれなかったようで、次号に続く、とあります(p.111)。
審査員の小山実稚恵さんが「その道のりは、遠いというか、先が細いのかなという感じも受けました」と表現されているように、日本人関係者は本件を批判的に反省しているのに対し、ツィメルマン氏は、今回のコンクールの複雑で異常な背景を理解した上で、日本人ピアニストは気落ちせず、今後も精進してほしい、という応援を送っているように感じられました。
要点としては、①テレビやインターネットを通して編集調整された音楽と、実際の演奏会場での音楽は異なること、②コンクールというものの原点とあり方の再考を促されたこと、③日本の音楽教育は優れているが、ステージに立って演奏することの意味をよく考えてほしいこと、でした。
この中で、私が最も興味深く感じたポイントは③。「ただひたすら、自分自身のことでいっぱいになっている音楽家の卵」ではなく、「自分自身の殻を打ち破り、自らの表現を他者に届け、それを多くの人々と分かち合い、共有するということをどれだけ望むか、という問題」と表現されていました。
換言すれば、「自分自身のことに拘泥して、完璧な演奏するというだけでは、決して十分ではない」。
折を見て演奏会に出かけるようになってから、伸びる演奏家と、たとえコンクールで一躍有名になったとしても、その後、鳴かず飛ばず(たとえ演奏活動は続けていても、感動が伝わらず、つまらない演奏しかできない、という意味)の演奏家の違いが感じられるようになってきたように思います。お名前を挙げるのは差し控えますが、その昔、日本でフィーバーされた某ピアニストの場合。しばらく前、久しぶりにテレビで生演奏を聴いて驚いたのは、(え!これがあの人?何だかすごく下手になったねぇ)ということ。テクニック云々というのではなく、演奏に向かう姿勢に、同じことをし続けていたためか、新鮮さがなくなっていたのです。ぎょっとしました。そして、いくら才能豊かだったとしても、常に勉強を怠らず、いろんなことに挑戦し続けなければ、すぐに成長など止まってしまうという恐るべき現実を見せつけられたような思いがしました。
と、感じていたところへ、昨夜は嬉しいニュースが飛び込んできました。ジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門で、広島出身の23歳の萩原麻未さんが日本人初の優勝を飾ったとのこと。これで、一時は落ち込んでいたかもしれない日本のピアノ関係者にも、励ましと喜びが起こったことでしょう。一見、普通のお嬢さん風なのですが、音楽に対しては特別の感覚を発揮するタイプなのだそうです。今後のご活躍を祈念申し上げます。