ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教宣教の一視点(1)

残暑お見舞い申し上げます。
暑さは残るものの、かなり朝晩、過ごしやすくなってきました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
さて、しばらくお休みしていたブログ。もっぱら、9月の学会発表の下準備をしていました。
8月7日には、故レナード・バーンスタインが、ユダヤ教の概念に基づいて、当時の時代背景からどのように作曲を試み、提示したかという非常に興味深いご講演をうかがいました。
講師は、ボストン大学歴史学者で、昔は、故ケネディ家と数ブロックしか離れていないほどのご近所に住んでいらしたとのこと。もし記憶に間違いがなければ、確か、6年前にも会合でお目にかかったことのある教授ではないか、と思います。とても丁重で謙虚なご挨拶をされる先生で、話術も巧みでいらっしゃいました。
キリスト教反ユダヤ主義との闘いの中で、本来ならば前衛的な作曲も可能だったはずのバーンスタインが、あえて反旗を翻すかのようなミサ曲や、ウエスト・サイド物語などの一見通俗的な曲をなぜ世に問うたのか、という角度から、映像も交えながらの楽しいお話でした。
集まった顔ぶれは、学生さん達よりも中高年が多く、質疑応答も、反ユダヤ主義との兼ね合いで、ワーグナーバレンボイムや外交官杉原氏にまつわるものが中心で、なかなか充実していました。
お話全体としては、教授の世代をまさに反映するもので、私にとっては映像の中の史実断片のように感じられるのですが、ニクソン大統領やベトナム戦争や麻薬に走る若者など、当時のアメリカの混沌とした社会状況を描き出すようなミサ曲の背景が、少しは理解できたように思います。また、カトリック教会からも批判が出たミサ曲について、その後、ヴァチカンでも上演されたとのことで、映像はヴァチカン版でしたが、帰宅してからyou tubeで他の版を見比べてみたところ、さすがに大学で紹介されたものの方が上質だと思いました。
講演というものは一種の刺激剤で、それをきっかけに、自分で考えたり調べたりすることができます。バーンスタインについても、『音楽の友』最新号で特集が組まれており、たまたま近所の図書館でコピーを取っていたので、一助となりました。『エレミヤ交響曲』もまた聴いてみたくなりました(参照:2009年2月9日付「ユーリの部屋」)。
さて。
冒頭の繰り返しになりますが、もう学会プログラムが公表されたので、書いてみましょう。
今回発表するのは、1800年代前半のペナンで、ロンドン伝道会の宣教師が、マレー人伝道をどのように考え、実践していたかという、いわば「植民地時代の宣教師研究」の一端です。
もっとも、このテーマ、英国やアメリカやオーストラリアの歴史学の研究者達によって、1960年代から1980年代または90年代半ばにはほとんど終わっており、半ば定説化されてしまっています。中でも、ある特定の数名の研究者の論文が、今、目にする範囲でも、あちらこちらで引用されています。当時としては、画期的かつ必要な主張を含むものだったからでしょう。私自身、2000年前後には、それらの論文を入手して、(あ、もう手をつけられてしまった!)とがっかりしたものです。
しかしながら同時に、私にとっては、いわば、キリスト教の送り出し側だった西洋諸国が、植民地支配の時代総括という観点から、世界状況の変化に伴い、「輝かしい栄光」だったはずの過去を罪悪視し、態度を180度変えてしまっている点に、外交面では理解できる一方、どこかすっきりと腑に落ちないものを感じていました。
また、それに呼応する形で、最近になって、マレーシアやシンガポールのクリスチャン達が、植民地時代のキリスト教伝道の状況を、地元の視点から研究し直してもいます。当然のことながら、ミッション・フィールドの受け手側なので、宣教師達の種蒔きという「労苦」がなければ、自分達の教会の歴史も成立しなかったという事実関係から、「哀れな異教徒達」と祖先が見下されていたはずの当時の宣教活動を、真っ向から否定する立場にはありません。むしろ最近では、華人や韓国人が、キリスト教世界宣教の担い手という自意識を有するようになっているそうで、元の送り出し側が自己否定している過去を、逆に肯定的に学ぼうという姿勢さえ、見受けられるところがあります。
西洋宣教師側から見て、同じくミッション・フィールドの一部であった日本の場合は、アジアを植民地化した立場だったこともあり、実のところ、それほど単純ではありません。
キリスト教に関しては、神学や聖書学などでも、いわばドイツやアメリカの学的潮流の結果だけを一方的に知らされ、受容させられているような感覚が常につきまとっていました。優秀な人が、その若い時期に、欧米の一流大学や神学校に留学して吸収した学問を、帰国して持ち帰り、著作をものして人々に広める。そして、しばらくあちらこちらで講義したり論文発表したりして、専門家および一般の人々の理解を進めていく。その過程のうちに時差が発生して、もしかしたら、留学先では既にその学問が「時代遅れ」となっているかもしれないのです。(実際、南メソディスト大学パーキンス神学部のハント先生から、「え!まだ日本ではバルトやブルトマンなんて読んでいるのかい?ここではもうお蔵入りしていて、神学生でも読まないぐらいだよ」と呆れられたことがあります。4,5年前のことでした。)
他方、教会に連なる人々は、それまで自分が納得し実践してきたものと、新たに受容するものとの間に矛盾や葛藤を感じた場合には、「学問と信仰は違います」と密かに耳打ちするような「面従腹背」の様相さえ見せることがあります。
....という、私なりに見聞したささやかな経験から、現状でできうる限りの資料を収集して、一個人の宣教師に焦点を当ててもう一度、分析し直してみよう、というのがねらいです。幸い、最近では著作権の切れた1800年代の宣教ジャーナル誌の復刻版が電子版で次々と読めるようになり、助かります。今回私が見た資料は、その多くが、ハーバード大学神学部やニューヨーク市立図書館やバイエルンの図書館など、錚々たる場所に保管されていたジャーナルばかりです。また、1970年代頃の青山学院大学の関係者で、日本聖書協会の重鎮でもいらした方が、英国や香港などを訪問した折に、いただいたりするなどして読み進め、著作にしたという資料も含まれています。
それが、今ではなんと、私如きが自宅で簡単に無料電子版で読めてしまえるのです。つまり、かつては麗々しかった学術活動が、35年も経てば、そこまで価値が下がるという意味でしょう。また、当然のことながら、上記の青学の先生の著述には、その解釈において、幾つか肝心な点でミスが散見されます。それだけ、当該地域の研究が進んだということです。
昨晩も、今回の発表で検討する宣教師の息子さんが書いたという古い復刻版書籍が届きました。綴りやレイアウトが見苦しいままに転写しているので、読みにくいことは確かですが、同時代に、いわゆる現地の人の書き残した資料が見つからないならば、こういう外部人の目を通した文献に頼る他、方法がないのです。果たしてそれを、単純に「文化帝国主義」「押しつけ」と反撃できるのか、私としては疑問に思います。
ただし、宣教ジャーナル各種を読んでいると、中国伝道の先に日本の事例が出てきて、さすがにそれには、時々笑わされることもないわけではありません。