ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

達意の文とは

高校一年の夏休みに家族旅行で琵琶湖へ行きました。二泊三日の後、京都経由で帰る前に「どこへ行きたいか」と父に聞かれて、即座に「兼好法師のお墓!」と提案しました。(こうしてみると、昔から私は、著名人のお墓巡りが好きだったようです。)
突然の思いつきだったのに、他に名案も意見もなく、5人でぞろぞろ行くことになりました。近くの交番で道を尋ねたところ、あるお寺(吉田神社ではない!)の境内の奥にあった普通の(と思われた)お墓へ案内されました。お供えの仏花が枯れていて、なんとも侘びしく思われました。
高校生なら古典は必修で、誰でも『徒然草』の数章ぐらいは暗唱させられているのに、その主が、今やこのような扱われ方をされているとは、諸行無常とはこのことか、と暗澹たる気分になったものです。
そのことを、夏休み明けの新学期に、クラスの一分間スピーチの順が回ってきた際、お話しました。言いたかったのは、「いくら有名人でも、亡くなってしまえば、その後の処遇は異なることもあることに気づき、愕然とした」という主旨だったつもりです。しかし、担任の先生(なんと国語担当!しかも3年間も同じ担任!)いわく、「夏休み中も古典の勉強を忘れないなんて、さすがはユーリちゃんですね」とかなんとか、その一言のみ。これまたがっかりしました。そういう意味じゃないのにって....。進学校のつまらなさは、こういう点にあります。
今朝、ふと手元の棚にあった岩波文庫新訂徒然草西尾実・安良岡康作(校注)(1928/1985/1999年 第102刷)を読み直してみました。
確かに、この歳になって読むと、実におもしろい!高校時代と違って、ノートに書き写して古語辞書を引いて、文法分解をして読むなどという作業をしなくてもよいので、よりおもしろく感じられます。
例えば...

何事も入りたゝぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまへたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。 (第七十九段)

←そうしてみると、昨今の競争社会における自己主張には、どこか違和感を覚えるのもむべなるかな、です。

友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。(第百十七段)

←「悪い友」の三つ目の定義、若い頃はその意味がわかりませんでした。「よき友」の最初の定義は、なんとなくおかしくて笑えてきます。

一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。(第百八十八段)

←だから、あれこれ迷うな、一事専心、ということですね。

己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。(第百三十一段)

←大事なのは「すぐにやめてしまうことを、相手の人が許してくれないならば、それは、その相手の人がまちがっているのだ。」という箇所です。

他にも楽しくてつい笑ってしまう文章がありますが、読みふけっているうちに、参院選投票に行く時間が来たのでやめました。