ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「脳バンク」から考える

昨日、たまった新聞切り抜きの整理をしていたら、「脳バンク」登録の動きがあるとの報道が出てきました(『朝日新聞』朝刊 2010年6月22日付)。死後の選択肢の一つとして、自分の脳を研究のために提供する制度だそうです。
実は、結婚後1年して診断が下された主人の病気も、この研究症例の範疇に入っていますので、私としても、今から考えておく必要があるのかな、と思っています。でも、いざという時のことを考えると、かなりのためらいもあります。私に「コートを買ってあげよう、ワンピースを注文してあげよう、壊れた掃除機の代わりに新しいのを探しといたよ」などと言ってくれた主人の脳が、いずれは研究対象になるのかぁ....。一緒に外食したり、私が作ったりした料理から、栄養素をエネルギー源としていた脳が、切り刻まれることになるのかぁ.....。
もちろん、本人の意思が最優先されるために、まだ主人には言ってはありません。
主人の伯父は、化学の仕事をしていたこともあり、合理的思考から、さっさと献体登録をして、一人で逝ってしまいました。
それはそうと、私が毎日のように疑問に思うのは、一体、私達の暮らしは、この病気によって果たして恵まれたのかどうか、全くわからないことです。
もちろん、世の中すべて、自分の考え方次第で物事が違って見えるので、中には、三浦綾子さんのように、ご自身でおっしゃった「病気の問屋」で次々と大病に見舞われても、「神にえこひいきされているのではないかしら、私」と言い切る奇特な方もいらっしゃいます。二十歳前後の頃、私もそう言える自分でありたいと、単純かつ愚かにも思ったことがありました。ただ、今にして思うのは、それは、三浦綾子氏が強い使命感を持つ作家で、世間に名を知られていたから、逆にそのように公言できたという一面も否定できなかったのではないか、ということです。
現実には、名もない市井の人が、同じ状況でそんなことを言っても、(おい、大丈夫か、あの人)という反応で終わってしまうでしょう。
キリスト教では、簡単に「喜び」とか「福音」とか「感謝」とか「恵み」ということを言ってしまう傾向があるかと思います。そして、「自分は救われた」「救われた喜び」だと一方的に表現することで、受け手がどう感じているのか、また、あくまで相手が「まだ救われていない可哀想な人」と下に見ていることにさえ、自分で気づいていないかのような加害者性が含まれていると思います。先日の本田哲郎神父のおっしゃったことは、まさにそこを突いています(参考:2010年6月30日付「ユーリの部屋」)。
主人の病気は、一般にはいわゆる「老人病」だという通念があって、働き盛りの若年性の人々は、自分自身のショック以上に、周囲の理解を得るのに本当に苦労しています。国内では約14万人の患者がいて、新聞でもよく報道され、研究が盛んで、いい薬も開発されているので、他の多くの難病よりも、はるかに厚遇されてはいるのですが、私自身、このブログでしばしばぼやいているように、高学歴でエリートだと自認しているような人こそ、平気でこちらを小馬鹿にするようなことを言うので、なかなか難しいなあ、と日々痛感しています。もっとタチが悪いのは、キリスト教関係者に、何を勘違いしているのか、その種の「エリート」がいたということです。わかっていないのに、頭で知ったつもりになっているからでしょう。
昔ならば、大所帯で暮らし、平均寿命も今よりは短く、環境も調わない中で刻苦勉励して研究の道に入った方が多かったので、自然と、自分のしていることに相対的な視点が備えられていたのでしょうけれども、今は、核家族個人主義で、知識の詰め込みで競争を強いられているので、苦労の少ない人が、最先端コースで「エリート」にのし上がってしまい、人生経験の不足をプライドと知識で対応しようとして、ギクシャクが起こることもあるだろうと思います。

ただ、世の中は広く見なければなりません。数年前まで夫婦で月一度、通っていた某所では、年上の方が多かったのですが、「いつも二人は仲いいねぇ」「あんな奥さんが欲しい、うらやましいなぁって、みんなで言っているよ」と言われてびっくりしました。家ではささいな喧嘩も少なくはないのですが、たいてい二人で行動しているために、そのように見えたのでしょう。また、離婚問題の典型とされてきた、お金と女性とお酒と暴力の問題は皆無なので、その点、平和で安定しているとは言えます。
今朝方、「子どもがいないことが残念だけど、まぁしゃあないか」と主人が言いました。でも、当時は精神的にも逼迫していて、周囲の支援もほぼゼロ同然でしたから、それどころじゃなかったし、結果的にこうなってしまったというのが実情です。「だけど、あの状況だったら、大事な幼児期に充分なことをしてやれなかったんじゃない?」と私が言うと、「手塩にかければ、子どもがうまく育つとは限らないよ。かえって、頼りない親からしっかりした子が育つ場合もあるし」とのこと。それはどうなんでしょうか、よくわかりません。ただ、無理に無理を重ねる結果にもなっていた可能性はあります。
そう言えば、大学の研究拠点に選ばれたところの査定が、今朝の新聞に掲載されていました。それによれば、大学間競争が激化したことで、短期間で論文の量は増えたが、質の上昇はあまり認められない、という結果が出たそうです。
そこから考えれば、病気のために、主人も私も人生行路の変更を迫られた上、いわゆる「競争状況」からは身を引くことになり、世間を見る基準も一つは追加されたので、それもよしとすべきでしょうか。